前回神恵内村に入った積丹一周。めぼしい旧道がなく、半分が寄り道で終わってしまうというまさかの展開でした。第6日の今日は神恵内村の中心部まで進みます。今日はたんと旧道ありまっせ。
この区間のハイライトといったら珊内から神恵内までには長い山道があります。1949(昭和24)年から1968(昭和43)年まで19年の長きにわたる工事で車道化した大森山道です。1973(昭和48)年からは海岸道路化の工事が始まり1985(昭和60)年開通。積丹防災で数々のトンネルが生まれ変わり、半世紀の間に秘境からモータリゼーションまでを経験しました。
西の河原を越えて最大の難所を突破。しかし安堵するには時期尚早。旧道歩きにとって本当の難所というのは古くから道があるような場所にあり。ここから南下していくと徐々に廃道のレベルがアップして極大を迎えるのは神恵内と泊の境辺りだと思います。それは明日の範囲ね。そこに向かって今日はテンション上げてこー!
海岸道路に延々と波消ブロックが続いています。この辺の道路は大体海を埋めて敷いていて擁壁だけでは心もとなかったのでしょう。
沖に見える窓岩という島。窓岩ってほんとに窓があいてるんですね。でなかったらそんな名前付かんよね。
ノット。いうまでもなく「岬」を意味するアイヌ語でしょうがノットに岬は無いんだな。
ノットって英語圏の人からしたら珍地名ですね。This is the NOT bridge! This is the NOT ebisu rock!
ノットでは道路の使い方が先進的です。たいして人も通らないのに広く作ってしまった歩道を無駄にしないMOTTAINAI精神。
ノット地区の南へ抜けるには窓岩トンネルを通ります。窓岩トンネルは1992(平成4)年3月竣工。
今日始めに消波ブロックで埋め尽くされた海岸を見ましたね。ブロックが無いとこうなるらしいです。
人が歩くと道になる。歩かなければ道は消える。ってこりゃひどい。何十年も掛かる荒廃をここではあっという間に遂げてしまうようです。
砕かれた路面の下に石積みの古い擁壁が露出していました。新しい方でも1車線幅なのにそれより狭く、全く余白なしのピッタリ1車線。
通り過ぎてから気付く頭上の危険。ゲームだったら主人公が近づくと落ちてくるわかりやすいトラップです。
しばらくぶりに街って感じ。ちゃんと人の気配がします。この川白に道路が届いたのは1976(昭和51)年7月。それなりの街とはいえそれなりに辺鄙な地なのです。テレビの中だけに進んでゆく高度経済成長を見てよくぞ耐え忍んで道を待ち続けましたね。
その1976(昭和51)年の道がこの先。こんなん国の後ろ盾が無きゃ道なんて出来っこないよね。
左は現川白トンネル、2003(平成15)年1月28日開通。右は旧川白トンネル、1973(昭和48)年12月竣工。旧トンネルの方、実は同じ位置にもっと古いトンネルがあったらしいのです。1960(昭和35)年の地形図にはすでにトンネルが描き出されています。
次の地区、珊内までは余すことなく崖が迫ります。来たれ崖マニア。
川白トンネルから次のトンネルまでの中間辺りに転がっていた木杭。「ねこ岩」とだけあります。
珊内までは岬をもう一つ、ノーラン岬を越えます。抜けるトンネルは能蘭トンネル、1970(昭和45)年11月竣工。こちらは川白の例と違いそれ以前の地形図にトンネルはなく斜面を一生懸命登る感じの道が載っていました。
ノーラン岬を珊内側からみると切れ味良さそうな形をしています。
ちょっと寄り道
車で走っていつも気になっていた日本郷土玩具館に来て見ました。日本で伝統的に作られてきたおもちゃを展示している博物館らしいです。※大人向けはありません。
これは!若者向けではない!っていうかターゲット層が見当付かん。
珊内を出て南にはマッカトンネル、1996(平成8)年10月竣工。
その旧道のマッカトンネル、1969(昭和44)年11月竣工。これぽっちも真っ赤じゃありません。
マッカ岬を越えて見えてくるのはやっぱり元気な崖です。昔は鹿を崖に追い立て落ちたところを捕らえていたそうです。ゆえにあの辺の崖を「鹿落し」と言ったそう。
現道に戻って鹿落しの真下を走るキナウシトンネル、2003(平成15)年3月25日開通。このトンネルは3世代ありますが、旧道は以前の日記参照
キナウシトンネルの神恵内側。ここでは写真1枚に前記の3世代のトンネルが美しく納まります。
ちょっと引いて大森トンネルも入れるとトンネル4つが1フレームに入る!(どうでも)いいね!
大森トンネルの銘板は「ウエンチクナイトンネル」を名乗り1985(昭和60)年11月竣工を主張しています。そのとおり。このトンネルができたのは間違いなくその年。名前もウエンチクナイ。途中で分岐させ新たなウエンチクナイトンネルが2004(平成16)年12月10日に開通、長さは1,268m。トンネル建設中、先で起きた災害のため仮復旧という形でした。この災害の本復旧を目指し更にトンネルを分岐・延長し2007(平成19)年3月21日に開通しました。長さは一気に2,509mまで伸び、名前は大森トンネルと改め今に至ります。洞内分岐なんて普通のことじゃないと思うんですが1つのトンネルで2つもやってのけるとはなかなか手がかかっているトンネルです。銘板はこのトンネルがウエンチクナイトンネルだったことを示す最後の証人なのです。
ウエンチクナイもとい大森トンネルの2箇所の洞内分岐は新しい方だけ今もそれとわかるように残されています。古い方はきれいに塗り固められ分岐であったことを見抜くのは難しいです。
1箇所目の洞内分岐を通ったことにして、ウエンチクナイトンネル神恵内側の初代坑口。
ウエンチクナイといういうのはもともとここを流れ下る沢の名。左手には細い渓流瀑がありこれがウエンチクナイです。ウエンチクナイに運ばれてきたのか路面には泥が広がっています。向こうに見えるのはとようみトンネル。
とようみトンネルの神恵内側に出ると坑口が2つ。カップルかよ。左がとようみ、右がウエンチクナイ2代目。直列だった2本のトンネルは生きながらに並列へとなっていました。
トンネルから先は海食棚の上に橋を築いて道としています。国道229号で最も名の知れた橋ではないでしょうか。これが落橋で何かと手間のかかった大森大橋です。
ご存じない方のために説明をば。大森大橋は5年の工期を費やし1985(昭和60)年10月に完成したプレストレストコンクリート橋。橋長429m、10径間で、珊内側からラーメン×3+2径間連続桁×2+3径間連続桁という構成です。
事が起こったのは2004(平成16)年9月8日。前月に発生し日本海を北上した台風18号は各地で大雨・強風による災害を引き起こし、強い勢力を保ったまま8日には北海道西岸沖の日本海にありました。吸い上げ効果で潮位は上がり、風向は陸に対してほぼ直角の南西、吹き寄せによる海面上昇、崖に囲まれた湾上地形、崖と消波ブロック間に滞留する水塊。そんな奇跡のように条件がそろったところへ沖からの波と崖に反射した波が重なって桁が持ち上げられずれ落ちたというのが顛末です。
台風が過ぎ去ってみれば札幌では最大瞬間風速50.2mを観測しそれまでの記録を更新、小樽・稚内では最高潮位を更新。台風による死者19人うち北海道7人で洞爺丸台風以来と言われる激甚な被害をもたらしていました。
珊内側3径間のラーメン。真ん中だけヒンジのある有ヒンジラーメンです。この形式は劣化が進むと桁のヒンジ部分が目で見てわかるほど垂れ下がることがあるのですがこいつはピンピンしています。そうですよね、まだ28歳ですもん。落橋時は衝撃で橋脚を破壊されても平然としていたというのに全く早すぎる死です。
馬鹿には見えない橋?いえいえ王様は本当に素っ裸です。ここから4径間、159m分が落橋した箇所。桁はただポトリと落ちるのではなく崖の際までぶっ飛ばれて一つの連続桁は真ん中でぽっきりと折れていました。総重量3,600tのコンクリートの塊を持ち運ぶ力を自然は持っているのです。これからの時代、解体工事は神に祈るだけで十分。
落ちたあと、3箇月後の2004(平成16)年12月16日、落橋部分に仮橋をかけて全面復旧。トラス桁にグレーチングの床版を張ったそれは模型実験で波の力を受けにくいことを確かめた上で設置、また波の観測とCCTVでの監視で警戒を強めていました。統計によると越波時に高さ26.8mもの飛沫が襲い、CCTVには東映みたいになった大森大橋が記録されています。もちろんそうなりそうな時には事前に通行止めです。
消波ブロックは橋の海側に置かれているものだったと思います。それがどうでしょう、陸側に散らされ折られ削られて。こんな大量の消波ブロックの残骸を一度に見られるのは津波の被災地でも珍しいのでは?○動テトラの社員さんが研究に来るレベル。
大森大橋は神恵内村の中央部と北部を連絡する唯一の道路であったため、北部の住民の95%が生活に悪影響を受け、中にはこれが理由で職を失った方もいました。また大森大橋の落橋はそれまで津波への耐波性ばかりが研究されていた橋の世界に一石を投じ、橋の新ルートは波浪とは無縁のトンネルになる良い影響ももたらしました。
大森大橋に隣接した大森覆道も同じ台風による被害をこうむった一員です。
覆道の窓は越波を防ぐ壁がところどころはめ込まれています。実は台風以前に珊内側数個以外すべての窓に壁がありました。台風の暴浪に打ちのめされ35枚中15枚が倒壊、9枚が破損、今日残るのはわずか10枚です。上からは落石降るし下では洗掘受けるし塩水かぶるし海岸の覆道というのは本当にタフさが試される構造物ですね。
健康体であったはずの大森トンネルは大森大橋の一件で道路自体が廃止に決まり道ずれになってしまいました。完全にとばっちりです。
大森トンネルの神恵内側坑口。右は現大森トンネル、左は旧。嵩上げのため旧大森は埋まってます。
現大森トンネルの扁額拡大。キレイに均等割付された大 森 ト ン ネ ルはもしかしてウエンチクナイトンネルを想定して作ったのでしょうか。
大森トンネルの目の前にある道の駅も台風で休止に追い込まれ6年後の2010(平成22)年4月24日に再開しました。
地形図によると神恵内までに小さなトンネルが4つありましたが、今現在ではどれもなくなってしまいました。写真は1箇所目の大森トンネル。
3箇所目のトンネル跡。1箇所目のトンネル以外はどれが何というトンネルかわかりませんでした。とりあえず大森以外で名前が挙がるのは現況調書に大森トンネルとともに記載された「神恵内トンネル」(道道の神恵内トンネルとは別)、それに1912(大正元)年私費で開削された「赤石中の滝トンネル」。
2015-07-22追記
袋澗を見るため浜に下りていたら道路脇の岩に気になるものを見つけました。
岩に四角い穴が開けられ、それが石垣で埋められています。高さは2m弱。石垣が無ければ、この小さな岩の出っ張りを貫き通路にちょうどいいです。まさに人道用のトンネルです。そして僕にはこういうものに見覚えがあるんです。というかこのすぐ後出てきます。かつて神恵内に栄えた網元が掘ったと思われるトンネルにそっくりの断面なんです。ここもまた神恵内村の中心部と沢口家という大きな網元の間にあるのでトンネルが掘られたんですかね?
トンネルの反対側は嵩上げされ、坑口はコンテナの下辺りの地面下になります。
ちょっと寄り道
古宇川の河口右岸にある神恵内村大字神恵内村の市街地から川を隔てた対岸の川向という地区にレンズを向けました。中腹に国道229号が通って、下の川沿いに家々が並ぶ川向の集落の末端が左に見切れています。右の画面外には竜神岬があって、岬と集落との間は海岸線にいくつも岩が突き出して分断されています。
川向に渡りました。大正・昭和中期の地形図にはここから竜神岬に向けて短い盲腸道路が載っていたので歩いてみます。地形図では幅1m以上の道路を示す線で表され、途中一箇所にトンネルの記号があります。このトンネルが残ってるかどうかが楽しみですね。
2枚上の写真で見た突き出した岩のうち、一番右の岩がトンネルが穿たれた箇所でした。
坑口の手前では道が直角に折れ、岩にへばり付く階段を数段経て左へと伸びています。
階段の先は岩を半洞門状に削り道としていたようです。頭上の岩には穴があけられ丸太が突き出ているところがり、屋根の痕跡だと思います。高々数百mの行き詰まり歩道なのにトンネルあり屋根ありと至れり尽くせりですね。
岩に囲まれた浜の中央を通らず、かたくなに岩壁沿いに遠回りするのは何なんでしょう。浜の奥まった方は草だらけで辿れません。
視線を左の川向地区方面に移してみれば、道の姿は認められず、矩形断面のトンネルを掘ろうとしたっぽい跡が岩に刻まれています。この道は建設途中で頓挫してしまったのでしょうか。写真の場所より川向側には全く道も何もなかったのでお楽しみのトンネルへ話を戻します。
トンネルはきっちり矩形の断面。高2.0m、幅1.5mぐらい。いたるところにタガネの跡が独特の模様を作っています。
トンネルから竜神岬までの間には道らしき道はありません。その代わり石積みの護岸擁壁?建物の土台?
岬の先端近くまで来ると袋澗に行き当たって終わり。明治の地形図ではここまでの沿道に建物の記号が点いてるしここが一大漁村だったことを考えると道は漁業関係のアクセス路だったのかなと思います。
ちなみにこの袋澗、木下の袋澗といい保存状態が良さは世界遺産クラスだそうです。よし認定!
袋澗見る時にお世話になってる『積丹半島の「袋㵎」』という資料の中で明治時代に描かれた袋澗の姿として紹介されていた『北海立志編』の挿絵にここの地形と大まかに一致する絵があるんですよ。しかも題が「木下寅吉漁之図」。木下の袋澗ってのは木下寅吉ってところからきてるっぽいですね。絵を良く見ると下の真ん中よりちょっと右ら辺になんとトンネルが!しかも僕の見たトンネルと同じく激レア矩形断面!残念ながらこの『北海立志編』はいくつかバリエーションがあるらしくこの絵が載ってる本は見つけられず。代わりに見つけた『北海道立志編第3巻』には木下寅吉に関する記述がありました。廃屋みたいな家に住むどん底生活から頑張って頑張って一代で富を築き上げた方でした。ほうほう。それで明治4年(1871年頃)家を建て、家の下の海岸を改修し漁業を営んだんだと。そしてトンネルを2箇所掘って交通の便に……。もう1箇所はどこにあるかさっぱり見当付きませんが、トンネルは歴史深き明治のお生まれですね。出処があやしい岩見とタッコブに代わって道内最古トンネルの座を奪う可能性も出てきましたよ。その後の歴史は華々しくはなかったようで、1928(昭和3)年の袋澗調査では北海道拓殖銀行が経営者になっておりこれは借金のカタとしてとられたらしいです。何があったの木下さん。
この記事の情報
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主要地点の地図
- 窓岩トンネル
- 川白トンネル(現)
- 川白トンネル(旧)
- 能蘭トンネル
- 日本郷土玩具館
- マッカトンネル(現)
- マッカトンネル(旧)
- キナウシトンネル(現)
- ウエンチクナイトンネル
- 大森トンネル(現)
- とようみトンネル
- 大森大橋
- 大森覆道
- 大森トンネル(旧)
- 神恵内村役場
- 名称不明のトンネル
参考文献
- 『1:25,000地形図』
- 『1:50,000地形図』
- 『橋梁現況調書』・『橋梁、トンネル、立体横断施設、覆道等現況調書』各年版
- 『北海道新聞』後志版、小樽・後志版
- 石川博之・佐藤昌志・三田村浩・畑山朗・岸徳光「2004年台風18号による大森大橋の被災メカニズム」、『土木学会第60次学術講演会』2005年第1部、pp.847-848
- 小樽開発建設部、『一般国道229号「川白トンネル」完成に伴う新ルートへの切り替えについて』(http://www.ot.hkd.mlit.go.jp/d3/kawasira.html)
- 小樽開発建設部、『一般国道229号「キナウシトンネル」新ルートへの切り替えについて 』(http://www.ot.hkd.mlit.go.jp/d3/r229kinaushi1.html)
- 気象庁、『災害時気象速報 平成16年台風第18号による9月4日から8日にかけての暴風と大雨』、2004年
- 木村克俊・古川諭・山本泰司・吉野大仁、「海岸覆道用防波板の高波による被災特性とその再現実験」、『海岸工学論文集』第53巻(2006年)、pp.871-875
- 木村克俊・渡辺元・山本泰司・岡田務・名越隆雄・三船竜二、「リーフ上に建設された海岸橋梁の高波時の安全管理について」、『海岸工学論文集』第54号(2007年)、pp.926-930
- 高橋尚人・平森善光・川村克己・高野伸栄「平成16年(2004年)台風18号大森大橋被災による地域社会への影響調査」、『土木学会第60回年次学術講演会』2005年第4部、pp.11-12
- 北海道、『神恵内竜神岬下木下ノ袋澗/北海道文化資源DB』(http://www.northerncross.co.jp/bunkashigen/parts/1000064.html)
- 北海道図書出版合資会社編輯局(編纂)、『北海道立志編第3巻』、北海道図書出版、1961-1962年
- 北海道文化財研究所(編集)、『積丹半島の「袋㵎」 北海道文化財研究所調査報告第2集』、北海道文化財研究所、1987年02月28日
- 山田秀三(著)、『北海道の地名』、北海道新聞社、1984年
- 「オスコイ!かもえない 2010年4月24日営業再開!」、『北海道・道の駅NEWS』Vol.64(2010年4月)
- 「HOT NEWS 国道229号 神恵内村 大森大橋」、『北の交差点』Vol.16号AUTUMN-WINTER(2004年)、pp.2-3
変更履歴
-
2014-08-08
サーバ引越しに伴いページを移動
旧URL:http://morigen.pro.tok2.com/blog/?p=6270
新URL:https://morigen.net/blog/?p=6270 - 2015-07-16 『積丹半島の「袋澗」』を『積丹半島の「袋㵎」』に表記変更
- 2015-07-22 本文中に追記
- 2015-11-08 誤字修正
- 2016-02-28 誤字修正
- 2016-03-20 「前へ|次へ」を追加
2014-09-06T20:36+09:00(JST)
先日は、1953(昭和28)年道の豊浜トンネルの件で、ご返信ならびに詳しい御解説までしていただき、本当にありがとうございました。
今回は、特に詳しい調査報告ではなく、私がかつてこの旧道と化した場所を訪れた時期、1986年~2003年までの間の数10回の記憶を書かせて下さい。
まずは、今やすっかり壊滅状態の旧キナウシトンネルですが、開通からまだ日が浅かった頃、覆道部分にコンクリートの壁はありませんでした。覆道部分のコンクリート壁は、おそらく1990年か1991年頃の設置だったと思います。
次に、とばっちりを受けた大森覆道ですが、1988年頃はまだ窓の壁はありませんでした。この窓の壁の設置時期は分かりませんが、たぶん1990~91年頃だと思います(これについては記憶が乏しいです)。
以上が、私の記憶する旧道の変遷です。長文ならびに前回のコメントから日が浅い上、コメントの内容が乏しいこと、深くお詫び申し上げます。
管理人様も今後ともお元気にお過ごしください。それでは失礼いたします。
2014-09-09T20:58+09:00(JST)
返信遅くなって申し訳ありません。いつも明文化されてこなかった情報をありがとうございます。
どちらも開通後に壁を追加したということは、作ってみたら想像を越えて波浪がひどかったんでしょうね。僕が現地を歩いてみてもやっぱりあの高さ(大森大橋付近の路面は海抜約12m)まで波が届いて、しかもコンクリの塊を投げ飛ばすなどとは、その瞬間を目撃せずには信じがたい驚異です。人間の考えをいともたやすく越えてみせる積丹の自然は秘境の名に恥じない存在ですが、負けじと果てしない道路建設に汗を流せる人間も凄いもんです。
2014-09-10T21:20+09:00(JST)
こんばんは。お心遣いならびに今回の私のコメントなんかにご返信いただきまして、ありがとうございます。開通後の壁の追加の理由は、まさに管理人様のおっしゃる通りだと思います。いつだったか忘れましたが、旧道がまだ現役だった頃に訪れたとき、波が道路に上がってきて大騒ぎした記憶があります。でも、そのときはまだ、あの大森大橋があんな形で落橋するとは思いもしませんでした。
本当に自然の脅威には驚かされ、果てしない道路建設に汗を流す方々には尊敬させられますね。