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積丹1周旧道旅5

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今日は神威岬南の付け根、積丹町神岬町柾泊を出発し、神恵内村に入ったところで終わります。積丹1周も後半戦に突入です。


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今日のルートは驚くほど道路空白地帯。松浦武四郎も船に飛び乗り、道路工学を最近まで拒み続けてきた最後のフロンティア。海岸に1筋しかない道路がようやく全通したのは1996(平成8)年のこと。


ちょっと寄り道

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のっけから寄り道失礼します。神威岬の遊歩道は現在唯一つ使われる馬の背ルートのほかに海岸ルートがありました。1888(明治21)年8月25日設置された神威岬灯台の灯台守やその家族などが通ったルートでした。


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かつて道となり観光客の足元を支えたコンクリートはわずかしか確認できず。


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道中海に最も出っ張った岬にトンネルは静かに眠っています。


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これが噂の念仏トンネル。1912(大正元)年10月29日、灯台守の婦人方2人が3歳の男の子を連れ余別まで天皇誕生日を祝う買い物行く途中ワクシリ岬で流され溺死してしまったそうです。1912(大正元)年の天皇誕生日は明治天皇の崩御直後だったので公には中止になったはずですがそのマメさがあだとなりました。悲劇を二度と繰り返すまいと念仏トンネルは掘られました。


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1914(大正3)年に計画し、両側から掘り始めたのはいいですが少しずれちゃって真ん中で食い違いが生じています。よって向こう側の光は見えません。念仏を唱えながら鐘を鳴らして掘る方向を決めて開通にこぎつけたとか、念仏を唱えながら通るとと安全だとかが、念仏トンネルと呼ばれるゆえんになっています。人は死ぬしトンネルはずれるし踏んだり蹴ったりですね。


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1918(大正7)年11月8日に開通。明治期のトンネルが少ない北海道ではそこそこ早い方のトンネルということになります。


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前述の通り少しずれているのでトンネル内でカーブします。


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こりゃ少しじゃないよ。測ってみるとトンネル延長の3分の1、21mがずれの修正に費やされています。


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念仏と鐘の音を約20m厚の岩盤を伝搬させて且つ方向を正しく見定めることって可能なんでしょうかね。一般的に遮音効果は材料の質量が大きいほど高くなり、質量が極めて大きい岩塊は半端じゃない遮音効果があるでしょう。計算上85dBくらい減衰するのでガード下と同じくらいと言われる100dBで念仏叫べば聞こえなくもないですね。なんてご立派なノドの持ち主でしょう。それでも平気な耳もスゴい。


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南無阿弥陀仏うううぅぅぅぅーーーー!!!!


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反対側に到着。


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外に出ると遠くに神威岬が見えます。右の細長いのは立岩。暗くて狭くて小気味悪い名前のトンネルの先には、妖しく屹立する岩と伝承の岬。見渡す岸辺は漏れなく懸崖に攻め立てられ、行く手に切れる神威岬が恐ろしげな地の果てのように感じられます。


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念仏トンネルの神威岬側の坑口。神威岬の観光客が望遠きかせて写真に収めるのがこれ。たまに左の洞窟と勘違いしている人もいるのでそんな人には右だよと教えてあげてほしいです。


さて「ワクシリ岬」は「ワリシリ岬」のミスじゃないか疑惑についてです。まず古い地図で余別町西部の岬(以後甲)と念仏トンネルのある岬(以後乙)はどういった名前で表現されたのでしょうか。1896(明治29)年の地形図では甲に「ワシリノ岬」乙に「タテ岩」と名前がふられています。次の版から両方表記が消え1960(昭和35)年に乙が「ワリシリ岬」と改められ再登場します。「ワクシリ」は全く出番なしだから間違いなんでしょうね。それになんか「ワリシリ」は「ワシリノ」の誤記のように思えますね。古い時代ではどうでしょう。松浦図では甲が「チヤシコチ」乙が「シユマチセ」。ワシリノ・ワクシリ・ワリシリみんな揃ってどこ行ったん。じゃあそもそも「ワリシノ」ってどんな意味なんでしょうか。「ワシリ+(連体修飾格の)の」と見るならちょっと理解できるかも。「ワシリ」とか「ハシリ」とか「ワスリ」という地名は海に面した崖のある所によくつけられている地名です。そしてその条件に合う場所は甲乙どちらか?どちらもですねぇ~。結論:ワクシリ岬はワシリノ岬の誤記だと思う。でもどれがワシリノ岬かはわかんない。


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寄り道から戻り柾泊に戻ってまいりました。現在時刻16時10分前。こりゃすっかりおまけが本編です。神岬トンネルは2004(平成16)年10月12日開通。神岬トンネルととなりの神威岬トンネルって名前にてますね。神岬は神威岬から来ているそうなので語義は全く同じです。


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たこ岩という岩。旧版地形図ではタラ岩(タラ岩は字形の似たタテ岩の誤り?)、立岩、松浦図ではチシヤ(日本語に直訳すると立岩の岸)。たこ岩という名が地図に出現したのは時代が下ってからのことです。「たて」を「たこ」と見誤ったかはたまた形がタコの頭に似ていたのか、理由は知りません。


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旧道脇にそびえる屏風のような大岩。落石防止ネットをかけるのを想像するだけで地上の星が聞こえてきそう。


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背にしたたこ岩を振り返るとこちら側からのほうがタコっぽい。


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尾根内地区では旧旧道が分岐し神岬トンネル坑口前を横断して集落の中を通って現道に合流します。左に登っていくのが旧旧道。旧道は登らないし集落も通らず合理性の元に道が作られています。


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旧道も現道に合流。


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尾根内地区を見下ろす崖はニョキニョキとカッパドキア風です。


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遠くに見える沼前岬までが積丹町。神恵内村に入るまではもう両手で数えるほどの人家しかありません。


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積丹町最後の有人地区、沼前。


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この沼前では巨大な地すべりが起こっていたらしい。幅約1km、高さ200m、奥行き1.5km、ここから見える範囲全部動いて、最も新しい移動箇所は国道を横断し海にまでかかっています。現在駐車場化されている大きな平場がまさにその現場です。昭和初期に地すべり真っ最中であることが知られ、1970(昭和45)年に全戸移転、1999(平成11)年にようやく移動が納まったそうです。


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沼前の一番端っこ、沼前岬を積丹トンネルで潜り抜けます。ここから5.8kmは1996(平成8)年に始めて開通したので旧道というものはありません。


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積丹トンネルを抜けると神恵内村。ただし始めの人家が見えてくるのはまだずっと後のことで、ここはまだ海と山に囲まれた秘境の地。西日の下ででこぼこが強調された山肌に筋骨隆々という言葉が思い浮かびました。国道1本なかったら全くアクセス不能の浜は最果てと呼ぶに相応しいです。もしも積丹半島に鰊が群来ず積丹に水産業という一大産業が発達しなかったら知床よろしく人跡まれな大フロンティアとして国立公園に名を刻んでいたことでしょう。


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「壮年期」という言葉を思い出させる地形に陸側を固められ、頭上うずたかくそびえる崖から道を守るため大天狗覆道が作られました。覆道の上は滑らかな滑り台状になっていて落石や落雪をそのまま梅へ受け流す感じ。航空写真で見ると小さな谷の河口部にあるようです。雨が降れば250mの高さから土砂とともに水が流れ下り覆道の上を通過するんですね。それで流れることを前提にしているような形なのか。


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大天狗トンネルで果ての地を脱しよう。


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大天狗トンネル抜けると去年来ました、西の河原。果ての地から抜け出してあの世に来てしまいました。しかし船でしか来られなかった西の河原も今ではすっかり太公望のバトルフィールドです。


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1996(平成8)年開通の区間最後は西の河原トンネル。


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西の河原トンネルを抜けてきました。積丹町と神恵内村。隣のようで隣じゃない。近くて遠い2町村は見てきた3本のトンネルでようやく本当の隣人になったのです。道も何もなかったところに突如逆ベルマウスの坑口が建設されて新時代の到来を予感したでしょう。ましてや霊場西の河原のお膝元。道路がやってくるなんて誰が思ったでしょうか。


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1996(平成8)年開通の区間はここまで。しばらくトンネルはお休みして海岸を縫うような道が続きます。


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国道229号最後の不通区間解消を果たし半島先端部と西部を連絡せしめた喜びは石碑としてこの地に記録されています。


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今日は出発が遅かったのでここで終わりにします。


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主要地点の地図

参考文献

  • 『1:25,000地形図』
  • 『1:50,000地形図』
  • 『橋梁現況調書』・『橋梁、トンネル、立体横断施設、覆道等現況調書』各年版
  • 『北海道新聞』後志版、小樽・後志版
  • 『小樽ジャーナル』、2004-10-08、「積丹の神岬(こうざき)トンネル10/12開通!」(http://otaru-journal.com/2004/10/1012.php)
  • 積丹町史編さん委員会(編集)、『積丹町史』、積丹町、1985年
  • 田近淳、岡村俊邦「大規模地滑り地形の発達:積丹半島沼前地すべりの例」、『日本地すべり学会誌』Vol.47(2010年)、pp.91-97
  • 十倉毅「吸音材料・遮音材料」、『環境技術』Vol.5(1976年)、pp.416-427
  • 北海道開発局小樽開発建設部(監修)、『後志の国道』、財団法人北海道開発協会、1989年
  • 松浦竹四郎、『東西蝦夷山川地理取調図』、1860年

変更履歴

  • 2014-01-26 MathMLの修正
  • 2014-09-22
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