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積丹1周旧道旅7

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積丹1周第7日目。この旅最短、わずか3.5km弱の区間に1日をささげます。もう旧道の密度が高すぎちゃって。


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巨人が爪を立てて引っ掻いたかの様に深く平行に刻まれた谷は道の存在を拒んできました。地図に記した一番古い道は海岸を避け大胆に山に入り込むルートです。茂岩から神恵内までの海岸は平らな岩礁が続く独特な地形で一見すると歩いて通行するのになんら差し支えがなさそうに見えます。しかし、こういう所ならどこでも聞く話ですが平時は海岸は通れても時化ると山道に回らなければならなかったそうです。神恵内-茂岩間の海岸道路は1921(大正10)年に着工し翌年開通。第2次大戦後順次新ルートへの付け替えが進み、平成に入るとこの区間のほとんどがトンネルや橋といった土木構造物に支えられる今の形ができました。


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神恵内村役場を出発。昨日からやたらチャリダーの団体を見かけると思ったら来週神恵内でツールド北海道があるんですね。僕も「ツールド北海道出る方?」って聞かれました。太いブロックタイヤのMTBなのにね。


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神恵内からは上り坂。昨日行った木下寅吉のトンネルの一段上を通過します。山道は行かないのかって?いや山道は自転車にはきつすぎますから。


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道が付け替えられたのにはそれなりに理由があります。積丹半島ではもっぱら地形が原因。尾根内大橋手前で左に尾根内トンネルを分岐するこの地点からはいつでもどこでも旧道の姿を確認できます。道の築設を邪魔するためにあるような凸と凹の連続に人は技術と努力をつぎこんできたのです。


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それまで無数のカーブと小さなトンネルによっていた道は積丹防災により快適なドライブウェイに生まれ変わりました。遮蔽物ゼロのオーシャンビュー。西に面し夕日を見ながら走るにピッタリ。それにまっすぐ過ぎはつまらないというライダー心をよく分かっていらっしゃる。現道の橋は神恵内側から尾根内大橋(2010(平成22)年12月28日開通)、魚谷大橋(2007(平成19)年3月2日)、弁財澗大橋(同)、祈石大橋(同)、神泊大橋(2001(平成13)年6月21日)。すべてコンクリートラーメンで統一され、陸と空がひと続き。華やかさこそないがスカッと抜ける曲線はまさしくレトロフューチャーが思い描いた未来。


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尾根内大橋の旧旧道は急斜面に張り付いて愚直に地形に沿っています。


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尾根内トンネル坑口前で旧旧道と旧道は交差。


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旧旧道はこれまた愚直に尾根内川をさかのぼり上流で尾根内橋を渡っていました。暗渠工を除くと意外と聞かない道路の古い鉄筋コンクリートアーチ橋。1935(昭和10)年12月10日竣工。道が開通したのは大正時代だから2代目の橋なのかも。


2014-07-27追記
この日は行かなかった尾根内橋橋上に行ってきました。
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じゃあ入って行きまーす。


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はい着きましたー。有効幅員5.50m、橋長23.00m、支間長16.0mのアーチ1つによる上路式鉄筋コンクリート橋です。僅かに弓なりに膨らんだ路面はそういう設計のようです。


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親柱の銘板は4枚とも亡失。


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シンプルイズザベストの高欄。今じゃ許されない高さです。


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橋の下に木材が散らばっています。上記の通り道路の開通年と橋の完成年に開きがあるからもしかして旧橋かと思いましたが、どう考えたって約80年前の木がこんな残ってるわけないですよね。


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なお構造を支えるはずのアーチはコンクリが崩れ鉄筋むき出しになって危険なのでマネしないでね。


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直線に空を駆ける現道尾根内橋。


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これは!


ちょっと寄り道

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飛んで火に入る夏の僕。予定にない突発寄り道です。岩がちな地形の細部を正しく表現できない地形図における隠し小岬。そう、ここは隠しステージ。


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ここまできっぱりとした矩形断面のトンネルはとても珍しく、昨日の木下の澗のトンネルとの関連を考えずにはいられません。木下寅吉が掘ったもう一つのトンネルというのがきっとこれなんでしょ?


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中は真ん中にこんもりと瓦礫が打ち上げています。向こうの明かりが見えるのでとりあえず四つんばいで突破。


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反対側に抜けられました。手彫りとは信じがたい水準で引かれた直線が気丈で営々たる氏の性格を現すようです。


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トンネルは岩の岬一つ抜けるだけで、先には岩礁地帯が広がっているだけでした。


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尾根内大橋の旧道を終えると間髪容れず魚谷大橋でも旧道があります。


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この綺麗に削られた岩壁にはかつてトンネルがありました。1921(大正10)年に作られた弁財澗1号トンネルがここにあったみたいです。


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旧道の行き止まりは弁財トンネル、1969(昭和44)年10月竣工。


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右に旧旧道が分岐しますが目の前で橋台につぶされています。


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弁財トンネルの茂岩側。こちらでは橋台まで距離があります。ちょっとした散歩を楽しめそうです。


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しかし短距離と侮るなかれ。この道一目でわかる程ただならぬ場所に引かれています。言っちゃ悪いけど大正時代にこれをやるなんてどうかしてるんじゃない?泊村-神恵内村間にバスが通じたのは1949(昭和24)年、弁財トンネルができたのは1969(昭和44)年10月。っことはこんな危なっかしい所をバスが走っていたということだ。ちょっと隣町に出るのも命掛けです。


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それでは中を拝見。岩がチューブ型に丸く穿たれオーバーハングになっています。片洞門ですね。


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すぐ後には橋が架かっています。手前は弁財橋、奥は桟道橋の弁財浅橋らしい。ここも天井と壁は削られ片洞門。片洞門の中に橋が架かっているんです。


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最後には片洞門が手を付き洞門になりました。弁財澗2号トンネル。わずか50mの崖地を切り抜けるために詰め込まれた土木技術の数々と自然の闘いにみな度肝を抜かされたらしく、建設中から廃止後に至るまで数々の写真に残されています。もちろん僕もシャッター連打です。


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トンネルから先はやっぱり現道の弁財澗大橋によってつぶされています。


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弁財澗大橋の袂で現道に戻る間もなく、今度は祈石大橋の旧道に入ります。


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祈石大橋の旧道には橋とかトンネルとか面白げなものはありませんでした。濃密だったりスカスカだったり旧道一つ一つが兄弟とは思えぬほど違う顔を見せます。


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祈石大橋-神泊大橋間のわずかな陸に、石碑が建っています。1922(大正11)年9月に初めて道路が開通したことを記念して建立されたものだそうです。


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次の祈石大橋から神泊大橋の旧道にかかるともうしばらく現道には戻ってこられません。


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神恵内から茂岩までの現道は、半分が橋、もう半分がトンネル。まるで北のアクアラインです。


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現道にしばしの別れを告げると右側に小さな石碑発見。1922(大正11)年9月に建立されたのは先の石碑と同じ。道路工事で殉職された方々へ捧ぐ慰霊碑みたいです。道路開通の喜びと同じぐらい忘れがたい功労なんだから雑草の支え棒なんかにせず現道の脇に移設してあげればいいのに。


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旧道は祈石トンネルで抜け、右手には祈石1号トンネル。1963(昭和38)年11月及び1922(大正11)年10月竣工。


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祈石1号トンネルを通って向こうに行かせてもらいます。


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思っていたほど中は荒れていません。


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坑口付近も崩落等なく、僅かに石が転がってるだけでかなり良い状態で残っています。しかしトンネルの外は真逆に天然由来成分100%使用。


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ここにも片洞門の痕跡がありますね。道という道すべてに少なからず人の手を入れねば道が成らない険しさの中に道を開いた人々の苦労が偲ばれます。


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祈石トンネルの茂岩側の坑口。微妙なアングルで撮っているのは正面が広くないためです。


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祈石トンネルと次の茂岩トンネルの間に架かっていた祈石橋は跡形もなく撤去されていました。祈石橋は59mを単径間で結び、桁は上フランジがコンクリ、下フランジとウェブが鋼の合成箱橋でした。ご存知の通り箱桁は断面が箱型で、箱の辺すべてがそろって初めて構造が完成します。祈石橋は鋼部分を先に架け、残る床版を兼ねたコンクリ部分を現場で施工中に真ん中が座屈し落ちてしまったんだそうです。ついこの間国道393号の月見橋が床版取っ払ったとたんに落ちましたが同じ臭いがしますね。ほかに使われた桁の断面が逆台形であって下フランジが2軸応力状態云々という理由もあります。落橋は1963(昭和38)年11月17日に発生し翌年新たに再建され完成しました。廃止後トンネルにサンドイッチされた立地でいかにして59mの桁を片したのかも頗る気になるところです。


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大正時代の道は切り立った湾を迂回しその様は水平歩道を思わせます。ここで神恵内村から泊村へと自治体はバトンタッチ。


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先にあるのは松風トンネルですが、大正時代のすなわち開通したばかりの素掘りトンネル時代は祈石2号トンネルという名前でした。


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松風トンネルの茂岩側に飛んできました。祈石2号トンネルは1922(大正11)年10月、松風トンネルは1962(昭和37)年11月に竣工。


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坑口前からはもう次のトンネルがすぐそこに見えています。


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トンネルの名は茂岩トンネル。松風と違い1961(昭和36)年に新たに掘られたトンネルで、それならば旧道が存在します。


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うわぁ……旧道大変なことになってますね。頑張って入っていくといつの間にやら路盤から外れ路盤の一手下を歩いてて小さな掘割を見て自分の誤りにようやく気付くほど。


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その先にはトンネル。ポン茂岩1号トンネルです。1913(大正2)年10月竣工。


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余り期待してなかっただけに現存には励まされました。


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茂岩側坑口付近はコンクリート巻き。裏込(?)にはブロックが見えます。もとブロック巻きのトンネルを後からコンクリートで補強したんでしょうか。


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茂岩側に出ました。坑口前は崩落土砂に埋まり高い位置から写真撮影。


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アーチのゆがみヤバイ。もうアーチとしての強度はないんじゃないかと思う。ゆがみダメゼッタイ。


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ポン茂岩1号トンネルから先。これは無理ですわ。路盤埋まって晩夏の濃い緑がふつつか極まりない。


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幸いここは後志に広がる海食棚の勢力圏内。磯に降りて下から観察してみましょう。左のほうにポン茂岩トンネルの坑口付近。行く先すべて緑。


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右の方に行くとチューブ型に岩が削られているのが見えます。地図ではあの辺りにトンネルが……。ポン茂岩2号トンネルここに永眠。


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それ以外ちょっとした石垣があっただけでめぼしい道路構造物らしきものはなし。山腹に水平のラインを残して道の存在を思わせるだけです。


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そして新旧茂岩トンネルをあわせ茂岩地区へ至ります。


2015-04-19追記
ポン茂岩1号トンネルから旧茂岩トンネルまで藪が濃くて歩けなかったところに、芽吹き前の季節、改めて行ってきました。


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ポン茂岩1号トンネル出たあとの景。ふつつかだった植物どもはまだ土の中。


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怒涛の勢いで半洞門が出てきました。ただの垂直な崖に無理矢理道の形を作ったというのが分かります。奥の半洞門が下の海食棚から見たポン茂岩2号トンネルが削られた跡。


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と思っていたのは5秒前までで、実際のポン茂岩2号トンネルはご存命でした。右の半洞門はトンネルが出来る前の旧道か建設時の工事用通路でしょうか。


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2号トンネルの影武者の半洞門は本当にオーバーハングが大きく、ぱっと見路面以上の幅があります。


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かく言う路面とやらもこんな幅しかありません。本来あるべきでないオーバーハングがとんでもない長さで、反対に広く取るべき路面が激狭という逆転現象。とても自動車が通れる道ではありません。やはり工事用通路なのでしょうか。


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この危なっかしい道は岩の出っ張りをぐるっと回って2号トンネルの反対側へと繋がります。


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それを短絡する2号トンネル。1号よりもずっと短くコンクリの覆工もありません。


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どっかんどっかん崩れてるわけではありませんが、あちこち崩れています。


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トンネルを抜けるとほんのちょっとコンクリートの転び止めが残っていました。車ががけっぷちを走るのにこれしきのもので大丈夫だったんのでしょうか。車を防げるとは思えないし、歩行者だったら転び止めで転んでしまいそうで心配です。


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岩壁に沿って地図には載りきらない小さなカーブを2・3曲がって弁天島が見えてきました。あの島がゴール付近です。


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トンネル後には半洞門が無いにも関わらず路面に崖錐はないし、路面が流れ去っていることもありません。崖の中に無理矢理引いた道だというのにここまで残っているというのはかなり意外。


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茂岩の温泉街が見える南斜面までやって来ると崖錐が数回現れました。ブログで何度か書いてますが僕高い所全くダメです。しかも高い所久しぶり。いつも首からぶら下げっぱなしのカメラをしまってカバンのベルトを締めなおし、プルプルしながら3点接地して越えて行きます。釣り人の視線が痛いです。


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途中展望台の跡と歌碑がありました。


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展望台からの風景。昔の写真で見たことのある景色はこの道からだったのですね。


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長年積もった枯れイタドリをバキバキ踏み越えて旧道はお終いです。


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神恵内から直線距離で3.5km。この短距離に丸1日かけて歩くほど歴史に彩られた区間でした。


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この記事の情報

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主要地点の地図

参考文献

  • 『1:25,000地形図』
  • 『1:50,000地形図』
  • 『橋梁現況調書』・『橋梁、トンネル、立体横断施設、覆道等現況調書』各年版
  • 『北海道新聞』後志版、小樽・後志版
  • 奥村敏恵「過去の鋼橋の事故を顧みて」、『片山技報』No.1(1981年)、pp.1-10
  • 小樽開発建設部広報官、『年末年始を迎える前に尾根内大橋を開通します ~一般国道229号 神恵内村 尾根内大橋へルートを切り替え~』(http://www.ot.hkd.mlit.go.jp/d3/hodo/ot101214-01.pdf)
  • 高橋庸一(編集)、『古老が語る神恵内―その時私は見た聞いた―』、神恵内村、1982年
  • 蜂谷寅雄(編集責任)、『泊村史』、泊村、1967年
  • 北海道開発局小樽開発建設部(監修)、『後志の国道』、財団法人北海道開発協会、1989年

変更履歴

  • 2014-01-25 誤字3箇所修正
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  • 2015-04-19 本文中に追記
  • 2015-07-01 脱字修正
  • 2016-03-20 「前へ|次へ」を追加

コメント

  • 梨野舞納
    2015-10-18T12:17+09:00(JST)

    旧茂岩隧道が現役だった頃、盃温泉側の歩道は自然な形でポン茂岩2号隧道に導かれる線形になっていました。

    私が途中まで歩いた時(10年以上も前だったかと)は四阿までの踏み分け道がハッキリと残っており、四阿自体もその姿を留めていたような覚えが有ります。

    四阿までを遊歩道として整備したのか、それとも狭小な茂岩隧道を迂回する人道として全区間を残したのか、どちらにしても無謀な試みですね。

  • Morigen(管理人)
    2015-10-20T20:49+09:00(JST)

    旧茂岩隧道が開通して15年後の1976年の航空写真を見ると踏み分け道はもうすでに四阿までしか見えないですね。
    ということは遊歩道説が濃厚かな?
    柵はないし落石はあるし今時の遊歩道としてはあまりに危ないけど、僕はこれぐらい探検感のある方が好みですね。

  • かな
    2020-02-14T21:32+09:00(JST)

    通りすがりにとても気になっていた古い道達だったので、探索された方のレポートを読めて感動しました。育児が終わったらいつか自分の足で探索したみたいです。それまで残っていますように。。