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黄金道路旧道(ビタタヌンケ~庶野)

冒頭部分は「黄金道路旧道(ビタタヌンケ~ルベシベツ)」を使いまわしてます。デジャブを感じた方は読み飛ばして下さい。

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日高と十勝を隔てる日高山脈。この北海道の背骨の北端は大雪山系につながり、南端はそのまま海に没します。両側の交通は狩勝・日勝・野塚・追分の各峠がありますが、これらはいずれも山脈の端をなでるように越える峠で、日高横断道路の潰えた現在においては山脈の核心部分を貫く実用的な交通路はありません。


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日高山脈の南端には垂直な岩肌が海岸にそびえる地形が続き、交通の難所となっていました。以前積丹半島、余市-古平間の山道の事を書いたことがありましたが、そのような個所がこの地域にもあったのです。こちらに於いても道路開削初期の頃はやはり山道を抜けて難所を越えていました。日高山脈東側ではルベシベツ山道と猿留山道、西側には様似山道が知られています。
これらの山道の歴史はまだ北海道が蝦夷地と呼ばれ、和人にほとんど状況が知られていなかった1798(寛政10)年に始まります。この年江戸幕府は蝦夷地に調査団を派遣しました。調査は松前から択捉島に到る東蝦夷地の班と、松前から宗谷に到る西蝦夷地の班の二班に分かれて行うもので、東蝦夷地の班の往路でこれらの地域の交通は波打ち際の岩場を、波のタイミングを見計らって進むという難路でした。調査団は択捉島へ到達した後復路で再びこの地を通りますが、運悪く風雨が強まり広尾から先に進めなくなり数日の滞在を強いられます。そこで調査団の支配勘定だった近藤重蔵守重はルベシベツ~ビタタヌンケに3里(11.8km)の山道を開削しました。これがルベシベツ山道です。


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翌1799(寛政11)年、東蝦夷地が江戸幕府の直轄地となり、各地で道路を開削し始めます。長万部・礼文華・厚岸・釧路の山道と共に、様似・猿留の両山道も幕府直轄の事業で誕生しました。これらの山道が開通したことにより、函館から根室までの太平洋岸を、馬で容易に旅する事が出来るようになりました。様似・猿留山道の開削は蝦夷地取締御用掛の大河内善兵衛政寿なる人物が監督し、工事の担当を中村小市郎意積(様似山道担当)・最上徳内常矩(猿留山道担当)ら、現場では南部からかき集められた人たちにより工事が行われました。開削は1年で開通させるという突貫工事だったため、1803(享和3)年に100日間で5,000人を投入した様似・猿留山道の修繕が行われています。両山道とも会所、後に場所請負人により、会所が廃止される1869(明治2)年まで管理されていました。会所廃止により山道の修繕はされなくなり、次第に荒廃して行きました。


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1886(明治19)年、北海道庁が発足したこの年、猿留山道沿岸に海岸道路が起工しました。丸太で組んだ矢来に砂利を詰め、上には平らな石を並べ路面とし、岩が張り出したところにはトンネルを掘りました。工事の監督は荒井長蔵、請負は道路を長尾庄兵衛、トンネルが田中五郎右衛門というのは様似やルベシベツと変わりありません。この工事は1890(明治19)年に竣工しました。これにより初めて出現した海岸道路はいまだ荷車は通れず、時化の時は山道に回らざるを得ませんでした。山道の新道というより状況に応じた選択肢が増えたという感じだったのでしょう。1921(大正10)年、幌泉村に北海道庁土木部長が来村した折、改修の話がとんとん拍子で進み翌日には確約し工事が決定しました。幌泉村直営で延長30間ほどの工事を6箇所行い幅員7尺の道となりました。


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1919(大正8)年、路線は地方費道7号帯広浦川線に降格となりながらも改修してほしいとの陳情があり、1925(大正14)年土木事務所長などと地元民に話し合いがされました。この付近は1887(明治20)年頃から昆布漁の漁民が急増しており、干場が工事で奪われるのではないかと考えた彼らを説得する必要があったからです。説得は難航しましたが多くの年月を費やしながらも遂に成功し、1927(昭和3)年7月にこの区間の工事が着工しました。ビタタヌンケを境にして北は帯広土木事務所、南は室蘭土木事務所が担当。帯広土木事務所担当箇所のトンネルは「第n号」を冠した名称でしたが、今日赴いた室蘭土木事務所担当箇所のトンネルは地名から名を取りました。トンネルは6箇所、橋は8箇所、幅員5~8mで工事費は36万円を要し、1934(昭和9)年に竣工しました。上掲の画像にはトンネルが7つ見えますが、猿留トンネルは一足遅い1939(昭和14)年の竣工です。


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第2次世界大戦により疲弊した情勢の下で、落石・波浪のダブルパンチを頻繁に受ける道路を満足に維持できるわけもなく、次の改良は戦後になります。1948(昭和23)年制定の「道路の修繕に関する法律」を根拠とする改修により戦前並みの水準を取り戻したのが1952(昭和27)年頃といいます。戦後の改良は1960(昭和35)年から1982(昭和57)年にかけて行われました。ビタタヌンケから北の工事は1986(昭和61)年に終わり戦後の黄金道路はひとまず完成となります。


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1996(平成8)年2月10日、後志の豊浜トンネルで岩盤が崩落し20名が死亡する事故があり、全国の人々を震撼させました。断崖絶壁に作られた海岸沿いの1本道が地域の唯一の交通という全く同じ条件の黄金道路周辺に住む人々もさぞや恐怖したでしょう。この事故をきっかけに各地のトンネルは次々と付け替えが進み、黄金道路も襟広防災という名の事業に基づき、新たなトンネルの開通を含む多数の改良がされていきました。(襟広防災事業自体は豊浜トンネル崩落よりも前の1990(平成2)年より始まっているものです)


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ビタタヌンケ・ルベシベツ間の黄金道路を歩いてから早1年強。なんとなくビタタヌンケ・庶野間も自転車で走る運びとなりました。あの時スタート地点としたこの碑だらけの駐車場を今回もスタート地点として南下していきます。


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ビタタヌンケの日勝橋を境にして北(写真手前)は広尾町、南(写真奥)はえりも町。律令制下では十勝国と日高国の国境になり、この地を境浜とも呼びます。


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日勝橋南にある浦路橋が越えるのはビタタヌンケを流れるピタタヌンケ川。アイヌ語ではバ行とパ行を区別しないので語源は同じでしょうね。ちなみに日勝橋が渡っている川は国土地理院によるとヒタタヌンケ川(笑)。甘藷岳山荘さんではこの不思議な地名について考察されていますが、ヒタタヌンケ川とピタタヌンケ川はかつて1本の川だったらしいことが書かれていますが、語源については正確なところは分からないということです。


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黄金道路ビタタヌンケ~庶野間最初のトンネルに着きました。現道の目黒トンネルは今年2012(平成24)年1月28日に開通したばかりの出来立てホヤホヤ、現在黄金道路で最も新しいトンネルです。でも新しげな白さがまぶしい坑口に後ろ髪惹かれつつ足を踏み込みたくなるのは左の方ですね。


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左の方は旧道目黒トンネル開通前に使われていた退きたてホヤホヤの旧道で、まずは岬第一覆道に入っていきます。宝浜第3覆道などにも見られた途中の屋根が跳ね上がる不整合があるので増築されてきたものだと分かります。


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覆道は間を入れずに岬トンネルへと突入しますが、その手前で旧旧道の分岐があります。


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別にここの旧旧道は入らなくてもいいんですがね。かつて旧岬トンネルあった場所にはこんもりと砂利が盛られ、ポータルは笠石がわずかにのぞくだけ。入る隙間も無ければ見るものもありません。


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ならば岬トンネルを通り……


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反対側を探ってみましょう。


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「心霊写真が撮れました」的に草むらに写りこむ黒いオーラ。あーヤバイ、意識してないのにあっちに足が向いちゃう。


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え?何で船落ちてるんですか?左の待避坑っぽいもの何ですか?土砂漏れちゃってますけど。何でゴミ散乱してるんですか?高校生のたまり場か何かですか?


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疑問は何一つ解決を見られず、奥の坑口付近に埋め戻しを見ました。コンクリートの覆工は入坑した南側の坑口付近だけでほかはコンクリートの吹き付けのみです。写真内の地面に盛られた砂利は天井の崩落によるもの。恐ろしくポロポロしていてさぞや掘りにくかったでしょう。


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さらに古いトンネルは見当たらず、旧岬トンネルが出来る以前の海岸道路初期の段階ではトンネルを介さず岬先端の砂浜(一部岩礁)を通っていたのかもしれません。


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旧岬トンネル前の擁壁は黄金道路にしては珍しく(?)玉石じゃない野面石。不ぞろいな大きさの石を谷積みしようとしたのは分かりますが、かみ合いが悪いせいで一部の石が抜け落ちちゃってます。また谷積みが破綻しているところも多く乱積みだかなんだか分からなくなってしまっています。本日の頑張ったで賞はこいつに決定。


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旧道に戻って先に進みます。岬トンネルから先は窓をふさがれた岬第二覆道の中。窓はところどころにドアや外に出られる隙間が設けられて漁民ラブが伺えます。この旧道が閉鎖されていないのも漁民のためでしょうし。


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覆道の先に止まっていた漁民愛用マシン。浦河から広尾までの海岸線沿い、日高昆布の産地ならどこでも軽トラは昆布漁に使うウインチが標準装備かのごとくです。2トン車だったらウインチとユニックが半々位。はじめから路上駐車を想定しているらしく、後部に固定された三角表示板のワンポイントがキュート。


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越波防止の高い壁をも負かす壁のような山肌が正面に見えて着ました。あの麓で現道へ合流します。


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やあまた会ったね目黒トンネル。現道は沖見橋を渡り、旧道は右から旧沖見橋を渡り合流。左の薄汚れた舗装面は工事中に使われていた迂回路。


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現道は黄金道路にあっては短いオニトップ覆道をひとくぐり。


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直後に荒磯トンネルへ入ります。荒磯トンネルは1982(昭和57)年竣工で、今日の現道のトンネルでは最も古いものです。30歳でも長老!?自然と地形がいかに厳しいかがこんなところにも垣間見えますね。


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トンネルあるところに旧道あり。漁民さんいらっしゃ~いの大解放。


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砂利道&駒止という白黒写真でしか見たこと無いような昭和の黄金道路の姿がここにありました。


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これまた見たこと無いような落石防止ネットだから昭和物件なのかと思ったらかなり新しい技術のようです。旧道化してからの設置と思われるのでやっぱり漁民のためですね。


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再び現道に戻ってきました。荒磯トンネルの銘板があっちもこっちも取り外されている謎。


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目黒の市街地に着きました。今日はビタタヌンケにわずかな人家とゴールの庶野とここ目黒に町があるだけで、それらの間は町どころか数kmにわたり1軒の家もありません。目黒前後はそれぞれ10km、計20kmに亘り市街地がなくここはオアシスというほか無いでしょう。でも目黒には休憩するような場所が無いので陸の孤島かもしれません。


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目黒はもともと猿留という地名でしたが、目黒さんが入地したから目黒になったんだとか。内地だと地名の成立が先で苗字は地名から来ていることが多く、また地名と住人の苗字が一致というのもまず自然には起こりません。生まれも育ちも内地の僕としては、いくら個人宅がランドマークとなる北海道でもぶっ飛んでると思います。


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腹ペコのチャリダーにうまいダシの出る名産日高昆布を見せびらかして購買意欲をそそる気だな!その手には引っかからないぞ!(夕方立ち寄った道の駅で買いました)


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目黒の外れまで来ると黄金道路の巨星、えりも黄金トンネルさまのご登場にあらせられます。


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もとは2009(平成21)年に完成した宇遠別トンネルがあり、これが既に3,215mというかなりの長大トンネルでした。このトンネルから洞内分岐し仮称第二宇遠別トンネル(1,927m)を接続させ更なる長大トンネルとする工事がありました。この工事のさなかの2010(平成22)年12月3~4日、暴風雨による高波を受け旧道(当時現道)のオンコの沢第一覆道内の路面に長さ16m、幅4.8m、深さ6mの陥没が発生しました。当時第二宇迂遠別トンネルは貫通はしていたようで、緊急車両とスクールバスに限りこのトンネルを迂回路として使用することが出来ました。しかし一般の方はわずか5分の道のりだったところを40分掛かる林道に回らざるを得なくなってしまいました。そんなんじゃ生活が成り立たなくなるので8日からは路線バス、10日から許可を受けた一般車両、翌年2011(平成23)年1月17日からすべての一般車両(但し幅・高さ制限あり)と暫定的な供用を広げて2月2日に全面開通を開始しました。宇遠別トンネルと第二宇遠別トンネルをあわせた長さは4,941mでこれは北海道内の道路トンネルで最長を誇ります。そして名前はえりも黄金トンネルとしました。


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じゃ、旧道行きましょうか。


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目黒覆道を通過。


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猿留覆道も通過……せずに、あれを探しましょうか。


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フフフ、探すまでも無いですね。これで隠したつもりか!甘いぜ。プリンに蜂蜜かけたぐらい甘いぜ!


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このトンネルは1939(昭和14)年から活躍していた猿留トンネルです。坑口は中央下部を木で、残りはコンクリートで閉鎖。さらに山側半分は法面の下に埋め封殺されてしまっていました。これならチラ見せさせる余裕もあるわけです。負けました。


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でもただで引き下がる僕じゃないですよ。押してだめなら引いてみろ。反対側も見てみましょう。


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コンクリートで大部分が固められて入るのは先ほど同じなのですが、木で塞がれていた中央下部はシャッターと窓がはめられているじゃないですか。


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入坑はかなわぬものの中をのぞいてみるとキノコの栽培施設として使われていたようです。酒類の貯蔵庫と並び廃トンネルのメジャーな利用法ですね。


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道に戻って先へ進もうとしましたが、ここに強力な結界が張られて僕の進行を許してくれません。結界を破る魔法は習得していないのでワープで接近を試みます。


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シュタッ。あそこの門めいたものが越えてはいけない一線だと思うのでこれ以上は近づきません。


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奥から汐鳴覆道、オンコの沢第一覆道、徳内覆道。いずれも延長100m強という特別大きなわけでもない長さですが、間はほとんど越波防止版で埋められています。それほど波が高くないと思われる今日でさえ打ちつける白波は軽く路面の高さまでしぶきを上げるのですから黄金道路の必須アイテムですね。


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覆道が続いた後には宇遠別トンネル。ギリギリで様子が伺えないとはもどかしい。坑口手前から分岐してこちらには旧道が伸びてきます。左に積まれてる白いブロックは覆道の上で緩衝材として使われる発泡スチロールですね。


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ちなみに洞内の分岐は既に塞がれ、知らなければ全然気づけません。古い宇遠別トンネルはナトリウムランプ(黄色)、新しい第二宇遠別トンネルは蛍光ランプ(白色)というのが分岐跡の目印になります。


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こちらに入ってオンコの沢第二覆道。


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静か……。道内最長道路トンネル旧道のど真ん中。波の音しか聞こえません。その音もホワイトノイズとなり、意識の中では無音の様。怖いほど一人ぼっちが強調されるこの風景を昔の人は歩いていったのかと考えていたら寂しくなってきちゃいました。


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古い時代の雰囲気がある微妙なウネウネ道を進むと次はオンコの沢トンネル。坑口はカーブの先です。その前の覆道は工事銘板によるとオンコの沢第二覆道という名前。あれ?さっきその名前聞いたような。


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オンコの沢トンネルの本体の手前で更なる旧道が分岐します。


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宇遠別トンネルの旧道はオンコの沢トンネルで、オンコの沢トンネルの旧道は宇遠別トンネル。失われた文明の遺跡みたいな坑口の内側は素彫りだったらしいです。


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坑口上の岩はオーバーハングしていてその下で突出したアーチの外側は野面石を胴込コンクリートで固めた外観。たぶん無機質なコンクリートを隠し見た目を良くするための装飾です。


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この宇遠別トンネルにはさらに旧トンネルがあるんですよね。知ってました?僕も現地で初めて知りました。


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これがその穴。名前は分からないのでウエンベツ1号トンネルと呼ぶことにしましょう。こちらの坑口は砂利で埋まっているため高さは1mぐらい。


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屈んで中に入ると途中で地面の砂利がなくなり岩盤が足元に現れ、その路面は奥に向かって登り勾配が付けられています。砂利をすべて取り除いたら、宇遠別トンネル完成前の本来の地面高と段差なくつながるのかもしれません。


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ウエンベツ1号を出ると道とは思えない高低差があるのですが、桟道橋や矢来を組んでいたのでしょうね。その先にはまた穴。ウエンベツ2号トンネルと呼ぶことにします。


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2号トンネルは非常に短く形も歪。上下方向に走る岩の割れ目を掘り広げたものに見えます。


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左の2号トンネルを出ると右のほうにまた穴。ウエンベツ3号トンネルと呼ぶことにします。両トンネルの間も段差があるので桟道橋か矢来があったと思われます。


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3号トンネルは向こう側の光が見えないけど大丈夫?


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大丈夫でした。向こうの明かりが見えなかったのはトンネルに入ってからすぐニュルッと右カーブしているためでした。このトンネルも1号と同じく埋まりかけで匍匐前進専用トンネルと化しています。しかし、3号の場合は外から石が流れ込めるようには思えないので、天井が崩落して積もったのでしょうか。岩の間になぜか海鳥の死骸がまぎれてて入る気が起きないし、そもそも匍匐前進していいような格好をしていないという言い訳が見つかったので胸を張ってオンコの沢トンネルで迂回してみます。


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左のオンコの沢トンネルを抜けてきました。その右には旧宇遠別トンネルが見えます。


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失われた古代文明への入り口は硬く閉ざされました。しかし真の入り口はその右。


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姫路城のように真の入り口を分かりにくくした防衛力の強い城ですね。まさか敵兵もここが入り口とは思わないでしょう。もし気づかれても狭い通路は一列でしか通れずこれまた防衛向き。あれ、何の話してたんだっけ。


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ウエンベツ3号トンネルはこちら側も相変わらずの埋まりっぷりと海鳥の死骸。


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旧道に戻り歩みを進めていきましょう。ここから先は基本漁民だろうと誰だろうと入るべきではないようです。


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でしょうねえ。こんなにてんこ盛りにされちゃったり。


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あるいはこんなに削られちゃったり。洗掘を受けた路面の下から玉石の擁壁が見えていますね。旧宇遠別トンネルとかが作られた時代の、つまり昭和初期に作られた擁壁です。


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前方に凄いものが見えてきちゃったかもしれません。


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柵も役に立たない大量の土砂流入。しかしさっき見えたのはこんなもんじゃない。まだこの先に大物がいる!


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さっきの土砂流入と規模は同じように見えるかもしれません。でも良く見てください。落石防止ネットを引き剥がし、鉄柱を土台ごと押し流し、下にはまだ何か埋まってる!


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大物トンネル旧道に潜む大物土砂崩れ。土砂の下で糸くずのように絡まる赤茶けたチリチリはなんだか分かりますか?擁壁の鉄筋じゃないですよ。あれ、押しつぶされた覆道ですよ。この下に宇遠別第一覆道が埋まってるんですよ。


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誰がここがかつて道だったと思うでしょう。


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崩壊を免れた第一覆道の半身が姿を現しました。想像してみてください。大型トラックも普通に通れる大きさの覆道が、ここまで埋まる量の土砂が天から降ってくるのを。神様は職権を乱用しすぎです。


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道路が事故死。


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宇遠別第一覆道の外観。これは復旧あきらめるわ。よくわかんないけど節穴の僕の目にもヤバイというのは分かります。この崩落はここがまだ現役の国道だった2004(平成16)年1月13日夜におこったもので、道路脇斜面が高さ50m、幅60mに亘って崩れご覧の惨事となり、室蘭開発建設部の職員が1名犠牲となりました。現在えりも黄金トンネルの一部になっている宇遠別トンネルは2000(平成12)年に着工し事故時には既に貫通していましたが、覆工などがされておらず通行は緊急車両に限られていました。目黒地区は町内の移動には国道236号経由で3時間以上かかり、さらにこのルートも夜間通行止めがあったため通勤通学通院が泊りがけにあるいは不能になるケースが発生しました。こういうこともあり建設中の宇遠別トンネルでは3月1日から町が用意したバスで1日3往復の運行をはじめ、4月1日からは一般車両も通行できるようになり、2005(平成17)年2月17日に開通を果たしました。このようなことは異例なんだそうです。なぜか同じような出来事がえりも黄金トンネルでも起こっていましたね。宇遠別トンネルではバスが通るまで1箇月半、一般車両が通るまで2箇月半。えりも黄金トンネルではバスが通るまで4日、一般車両が通るまで10日。えりも黄金トンネルが滅茶苦茶早く暫定開通したのは単に完成が近かったからというだけでなく、宇遠別トンネルという前例を経験していたということもあるでしょうね。
あ、あとすっかり忘れてましたが、この崩落した場所には1931(昭和6)年から厚生トンネルというのがあったらしいですよ。


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宇遠別第一覆道の次は宇遠別第二覆道。背後の大崩落を忘れる平凡っぷり。


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そして宇遠別第三覆道。ちょっと床が散らかってますが、大崩落に比べりゃこざっぱり。


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ちょっと離れて紅葉覆道。ここには1931(昭和6)年から旧咲梅トンネルというのがあったらしいですよ。


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覆道の近くに建っていた殉魂碑。裏には1974(昭和49)年10月9日の日付と亡くなられた2柱のご尊名が彫られていました。この年は紅葉覆道が出来る前年。旧咲梅トンネルの撤去や覆道の工事で亡くなられたんでしょうか。黄金道路は昔のダム工事みたいにあちこちで人が亡くなってるんですね。ご冥福をお祈りいたします。


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久しぶりに現道に出ました。こんなにも長い間旧道に居たというのに、ずっとえりも黄金トンネルというたった1本のトンネルの旧道に過ぎません。西遊記で孫悟空がお釈迦様に勝てなかったあの敗北感。ぐぬぬ、黄金道路侮れん。


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現道はえりも黄金トンネルを出ると咲梅川が注ぐ小さな平地を通ります。咲梅は現在こそ無人ですが少なくとも平成の時代まで有人集落でした。咲梅を過ぎると新咲梅橋を渡り473mの咲梅トンネルに入り、旧道は咲梅橋を渡りトンネル無しの海岸ルートをとります。咲梅トンネル(仮称咲梅北トンネル)はとなりの宇遠別トンネルとともに工事が進められていて開通も同時でした。


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旧道は今でも地元民が漁で入っているのでまったく荒れていません。旧道入り口には閉鎖も無くあたかも公道のようです。旧道化と同時に町道に降格して管理されているのかもしれません。


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咲梅トンネル旧道は別に何も無く、って言ったら失礼かもしれませんがよく維持管理されている証拠です。


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クレーンのアームの先端付近、垂直に近い法面にヘルメットの人が張り付き工事をしていました。仕事とはいえ強い斜面上昇風の作る雲に時々隠されながらロープ1本に命を預ける漢。僕には真似できません。


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クレーンの直ぐ奥、現道は白浜トンネルに、旧道は左の咲梅覆道に。咲梅覆道の場所には1931(昭和6)年からは無名トンネルがありました。覆道内は漢の駐車場や集会場になっているので邪魔しないようにトンネルルートを使わせてもらいます。


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白浜トンネルの旧道も閉鎖が無くきれいな路面。トンネルが工事や万一の事態で通行止めになったら迂回路として問題なく使えそうですね。


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次はフンコツトンネル。記念すべき黄金道路えりも側最後のトンネルです。どなた様も脳内で蛍の光を再生してご観覧ください。


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左に見えていたのは旧フンコツトンネル。海岸道路が車道化にあわせ1930(昭和5)年にできたトンネルです。手前の路面は未舗装じゃないし擁壁も野面石でなく昭和初期の毛色をしていませんが、トンネル自体は直線の側壁と円アーチという今まで見た同時期のトンネルと一致しています。


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フンコツトンネルえりも側。旧フンコツへ通ずる路面は長い年月を経て消滅していました。


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脳内の蛍の光は終了しましたか?黄金道路はこれにて完結。ゴールの庶野まではもう間もなくです。


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道路は庶野に入りました。恥ずかしながら黄金道路を歩き始めた去年まで庶野を「しょの」と読んでいました。住民の皆さんごめんなさい。庶野までくると波浪にも落石にも便意にも怯えることはありません。


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庶野には大小の船が入る庶野漁港はじめ、学校、郵便局、交番、診療所など公共施設があり、目黒以来の町と呼べる町です。黄金道路の南の玄関口にして猿留山道入り口の一端となる町です。


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結露でぬれた北海道最長のトンネルを1往復したら、ツッパネでズボンがおもらし風に濡れました。念を押しますがもらしたんじゃないからね!

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主要地点の地図

参考文献

  • zwiebel、『国道336号 区間2 黄金道路 第2部 – 北海道 道路レポート”カントリーロード”』(http://hokkaido-douro.net/kokudo/336/336-2/2-2.html)
  • zwiebel、『北海道 道路トンネルデータベース 国道336号 – 北海道 道路レポート”カントリーロード”』(http://hokkaido-douro.net/tunnel/R336/index.html)
  • あまいものこ、『猿留山道1(幌泉-猿留)』(http://amaimonoko.at-ninja.jp/h-mtdata/hidaka/sarurusando.htm)
  • 企画情報課(編集)、『新広尾町史資料 温故知新』、広尾町、2003年
  • 北海道開発局、『一般国道336号 襟広防災 再評価原案準備書説明資料』(http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/16sai/2_h16_014b.pdf)
  • 北海道道路史調査会(編)、『北海道道路史 路線史編』、北海道道路史調査会、1990年
  • 室蘭開発建設部、報道発表資料「一般国道336号えりも町の通行止めに関する情報」(http://www.hkd.mlit.go.jp/topics/press/press_h2212/06_R336.pdf)
  • 『北海道新聞』、2004-01-15朝刊地方版27面、「えりもで土砂崩れ えぐり取られた山肌 なお続く小規模な崩落」
  • 『北海道新聞』、2004-03-17朝刊全道版34面、「えりもの新トンネル 一般者も通行可に 開建 時間制限し月末から」
  • 『北海道新聞』、2010-12-07夕刊全道遅版13面「黄金道路が陥没 復旧めど立たず」
  • 『北海道新聞』、2010-12-08朝刊苫小牧・日高版22面「黄金道路陥没 復旧未定、困惑 住民『トンネル通して』」
  • 『北海道新聞』、2010-12-10朝刊苫小牧・日高版22面「えりも国道陥没 トンネルを迂回路に 現在工事中の『第2宇遠別』住民のみ通行許可」
  • 『北海道新聞』、2011-01-17夕刊全道遅版10面「黄金道路の通行再開 えりも」

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コメント

  • かな
    2014-02-01T13:04+09:00(JST)

    はじめまして。初めて就職したのが日高地方(7年前?)で先輩にドライブで襟裳岬~帯広に連れて行って貰ったときに
    黄金道路を通ったことを思い出しました。運転の大変そうな道でしたが、大きいトンネル達に変わってしまったのですね。景色がとてもキレイだったので少し残念です。

  • Morigen(管理人)
    2014-02-01T23:31+09:00(JST)

    ですよね。でも毎日通るジモッティの安全が守られると思えば納得のいくトンネル化です。