日高と十勝を隔てる日高山脈。この北海道の背骨の北端は大雪山系につながり、南端はそのまま海に没します。両側の交通は狩勝・日勝・野塚・追分の各峠がありますが、これらはいずれも山脈の端をなでるように越える峠で、日高横断道路の潰えた現在においては山脈の核心部分を貫く実用的な交通路はありません。
日高山脈の南端には垂直な岩肌が海岸にそびえる地形が続き、交通の難所となっていました。以前積丹半島、余市-古平間の山道の事を書いたことがありましたが、そのような個所がこの地域にもあったのです。こちらに於いても道路開削初期の頃はやはり山道を抜けて難所を越えていました。日高山脈東側ではルベシベツ山道と猿留山道、西側には様似山道が知られています。
これらの山道の歴史はまだ北海道が蝦夷地と呼ばれ、和人にほとんど状況が知られていなかった1798(寛政10)年に始まります。この年江戸幕府は蝦夷地に調査団を派遣しました。調査は松前から択捉島に到る東蝦夷地の班と、松前から宗谷に到る西蝦夷地の班の二班に分かれて行うもので、東蝦夷地の班の往路でこれらの地域の交通は波打ち際の岩場を、波のタイミングを見計らって進むという難路でした。調査団は択捉島へ到達した後復路で再びこの地を通りますが、運悪く風雨が強まり広尾から先に進めなくなり数日の滞在を強いられます。そこで調査団の支配勘定だった近藤重蔵守重はルベシベツ~ビタタヌンケに3里(11.8km)の山道を開削しました。これがルベシベツ山道です。後に開かれる長万部・礼文華・様似・猿留・厚岸・釧路の各山道の先駆けとなり、函館から根室までの太平洋岸を、馬で容易に旅する事が出来るようになりました。
山道開削前、調査団の一人で後に猿留山道を開くことになる最上徳内常矩が重蔵に道路の必要性を力説し、重蔵はこれに応えるように通辞やアイヌと相談し、従者の下野源助(本名木村謙次)らに指揮を執らせ、アイヌを雇い、私財を投じて開削を行いました。山道は狩人が使っていた小道に沿って開削されたものでした。重蔵はこれら開拓などの功績が認められ1911(明治44)年に正五位を贈られ、北海道神宮の境内社の開拓神社では神として祀られる存在となっています。また、ルベシベツ山道は蝦夷地道路開削の嚆矢と称賛され、山道そのものといくつかの碑・文書が文化財に指定されています。
山道が完成してからも海が凪いでいる時はそれまでの海岸線を行く道程を取ることも多く、山道と沿岸路の併用の状態で使われていました。様似山道では突貫工事の山道を3年後に修繕したということを書きましたが、ルベシベツ山道に於いてもトカチとホロイズミ所場請負人が隔年で修繕をしていました。またルート変更もあった様で、そのあたりの事や山道の実踏は甘藷岳山荘がお詳しいのでそちらにお任せします。
1885(明治18)年道東に至る唯一の国道である国道43号としての指定を受けました。当時狩勝も日勝も峠道は開かれておらず、太平洋沿岸のルートは札幌や函館から釧路や根室に至る重要な路線だったのです。1886(明治19)年北海道庁が発足した年、猿留山道下に海岸道路が起工。4年後の1890(明治23)年に竣工。1891~1892(明治24~25)年ルベシベツ山道沿岸にもトンネル(全7箇所?)や86箇所の板橋を含めた海岸道路が設けられました。監督は新井長蔵、道路工事は永岡庄兵衛、トンネル工事は田中五郎右衛門(五郎右ェ門と表記したり、彼の長男である五三郎としている資料もある)が請負ったということです。海岸道路が完成してからも時化の時は山道を使い、山道との併用はの時代はまだ続きます。
1919(大正8)年、路線は地方費道7号帯広浦川線に降格となりながらも改修してほしいとの陳情があり、1925(大正14)年土木事務所長などと地元民に話し合いがされました。この付近は1887(明治20)年頃から昆布漁の漁民が急増しており、干場が工事で奪われるのではないかと考えた彼らを説得する必要があったからです。説得は難航しましたが多くの年月を費やしながらも遂に成功し工事が着工しました。多くの漁民を説得できたと言っても、反感を買ってはいけないとの考えから起工式は他の工事の起工式と併せ質素に執り行われました。1927(昭和2)年7月6日の事です。
海岸道路は帯広土木事務所管内と室蘭土木事務所管内の境にあり、ルベシベツ山道の沿岸はすべて帯広土木事務所の管内にあります。工事は広尾川右岸からビタタヌンケを6工区(第6工区は更に3つに細分し8工区とする資料もある)に分けて進め、1934(昭和9)年11月に竣工しています。延長16,392m、工事費562,675円。波が打ち寄せる所は玉石練積みの擁壁を積み、所によってはコンクリートの擁壁を立て、トンネルは9箇所で一~九号を冠した名称が付されました。室蘭土木事務所管内と合計すると、総延長33,529m、総工費945,503円、橋22箇所、トンネル17箇所でした。
ところで海岸道路は当初「日勝連絡道路」と呼ばれていましたが、現在では「黄金道路」の愛称で呼ばれています。この愛称は開通時には既に使われており、それどころかまだ建設工事が行われている最中の新聞にも登場していたそうです。黄金道路の由来として『新広尾町史第二巻』では工夫として黄金道路の建設に携わった方が次の様に語っていいます。
第二工区フンべと美幌の間、昭和三年九月五日竣工のうち、とくに現在のフンべの滝出先隧道より保志さんの滝の間の箇所が、難所中の難所で、札を積んだくらい金を要したところから、黄金道路という異名が誰とはなしにつけられた記憶がある。
後に黄金道路の解釈は変わったようで、今では「黄金を敷き詰めるほど建設費がかかった」という旨の説明を処々で見かけますが、どちらにしろ膨大な建設費を投じられて作られたということには変わりありません。1mの道路を作るのに費やした費用は28円19銭95厘。帯広土木事務所管内だけでは34円32銭62厘。記録のある中で最も高額となった第2工区では94円12銭61厘。当時流通していた最小額面の紙幣である大正小額紙幣10銭は54*84[mm]なのでその面積は4.536E-3[m2]。道路の幅を4[m]と仮定した場合長さ1[m]では4[m2]なので、4/(4.536E-3)≒881.83。1[m]の道路をお札で充足するには少なくとも8円90銭あればよい。なので道路をお札で埋め尽くせるほどの費用がかったというのはあながち嘘じゃない!第2工区にいたっては多少積み重ねられる!
第2次大戦中は維持も満足にできない状態でしばらく進化は止まりましたが、戦後修繕を受け1953(昭和28)年二級国道236号帯広浦河線に指定されます。更に「道路整備特別会計」「道路整備緊急措置法」「道路整備五ヵ年計画」等道路整備の環境が法律面で整い、1960(昭和35)年から大規模な改修工事が始まります。工事は逐次進められ1986(昭和61)年10月に橋5箇所、トンネル6箇所、覆道15箇所を擁した新しい黄金道路へと生まれ変わりました。2005年にタニイソトンネルという長大トンネルが開通し、新宝浜トンネルが計画されるなど現在も先達の敷いた黄金を磨き上げる改良が続いています。2016-02-19追記 新宝浜トンネルは2012(平成24)年1月着工、2016(平成28)年2月18日11:00に開通しました。1965(昭和40)年からは一般国道236号、1975(昭和50)年からは天馬街道の開通により国道336号と名を変遷しています。
地図左端(南)のビタタヌンケから歩き始め、黄金道路を右(北)に歩いてみます。今回山道は歩きませんでしたが、車で入ってみると、廃道どころか林道として現役でした。
ビタタヌンケからは山道に沿う林道が分岐しており、山道と黄金道路に関する碑や標がずらり勢ぞろい。パーキングと近くの海岸にトイレもあるのでドライブの休憩に、歴史の勉強に、山道歩きの拠点に、海を見に、急な尿意便意にいかがでしょう。
碑の群れの北にはビタタヌンケ覆道があります。黄金道路は現在進行形で建設が進んでいる道路で、覆道に関してはトンネルや橋と違い年を追うごとに延長され、ビタタヌンケ覆道は1977(昭和52)年には36.0mだった延長が1986(昭和61)年には408mに達し、現在では更に伸びています。
ビタタヌンケ覆道を抜けると次は宝浜第3覆道。1971(昭和46)年時105.0m(当時は宝浜覆道)が1986(昭和61)年では552mとこれまた大成長を遂げています。
宝浜第3覆道内には1箇所だけ幅員が狭い区間があり、区間の両端は天井が跳ね上がるという明らかな不整合が見受けられます。おそらく最初期の105.0mの部分なのでしょう。
宝浜第3覆道を抜けたら暗渠を越えるだけの短い明かり区間を挟み宝浜第2覆道へと入ります。宝浜第2覆道は途中に宝浜トンネルを挟み、トンネルを抜いた延長は136m。トンネルよりこちら(起点)側の覆道は96mと黄金道路の中では短いものですが、それでも1984(昭和59)年に72mであったので延長されています。
本日1本目のトンネルとなった宝浜トンネル。1969(昭和44)年から活躍しているこのトンネルの右には2代の旧トンネルが並んでいるので、覆道を抜けだして見てみましょう。
第九号隧道は突出したコンクリートの坑門が崩れてしまっています。第九号と言う名前は後に第9ルベシベツに改名したらしく、北海道 道路トンネルデータベースでは後者の名前で載せています。また同データベースと隧道データベースでは「茅9号」、『北海道道路史 技術編』では「芝9号」というトンネルが載っており、いずれも第九号隧道の事だと思われます。原本が相当汚い字だったんでしょうね。
第九号隧道前の擁壁は現場打ちコンクリートではなく、割石練積みがところどころに覗いていました。黄金道路では1927(昭和2)年から玉石練り積み擁壁が、1934(昭和9)年からコンクリート擁壁が建設されました。この擁壁は玉石練り積み時代のものに後年コンクリートの補修を加えたんでしょうね。
トモチクシ隧道までは幅2.6mと推定される桟道が架けられていたそうですが、今は影も形もありません。橋脚を立てるために掘られた穴だけが桟道の存在を物語ります。
トモチクシ隧道は1892(明治25)年に田中五郎右衛門が掘った初代海岸道路のトンネルです。五郎右衛門のトンネルは資料によって名称が一定しないので本来は無名のトンネルだったかもしれません。トモチクシという地名なのでここではトモチクシ隧道としています。トモチクシ隧道は1976(昭和51)年に広尾町郷土研究会が行った調査によると延長36m、高さ約2.9m。体高の低い道産子に跨ったまま通行できるものでした。銘板・案内板を寄贈した方は五郎右衛門の子孫だそうです。
岩を砕き取っただけの様な凸凹の路面には水がたまり、天井には花崗岩の僅かな隙間にど根性植物が根を張っています。
地図右(北)側に行くに従い土砂や漂着物が堆積し、反対側の坑口では閉塞はギリギリで免れているものの小動物が通れるほどの隙間しか残されておらず、実質閉塞と言っていいと思います。閉塞したトンネルはカビ臭いというのが廃トンネルの常ですが、余りに海に近いこのトンネルはカビと言うより磯の香りが充満しています。
宝浜トンネルを抜けて反対側に来ました。宝浜トンネルのこちら側も宝第2覆道を被っています。
銘板の残る第九号隧道と、えーっと……トモチクシ隧道はどこでしょう。
宝浜トンネルと宝浜第2覆道を抜けたらファーストナンバー宝浜第1覆道が続きます。
宝浜第1覆道を抜けたところで太平洋を見つめるお地蔵様。この海は何人の命を奪ってきたんでしょう。
空が見えたと思ったらまた覆道。タニイソ覆道です。1974(昭和49)年88.0mが1986(昭和61)年312m。タニイソ(タンネソ)では1934(昭和9)年3月14日に雪崩が飯場を押しつぶし、多数の死者を出しました。死者の数は10人か15人かその数がはっきりしません。始めパーキングに並んでいた殉職記念碑はもともとタニイソにあったものを移設したものです。殉職記念碑では黄金道路工事全体の殉職者数が18人となっていますが、実際はもっと多そうですね。
タニイソ覆道を抜けると現道は2,020mのタニイソトンネルでルベシベツまで安全な地中に潜り、旧道は右に逸れます。
旧道入口の橋は仮橋に架け替えられ第一線から退いてはいますが閉鎖はされていません。橋を渡ったら黄金覆道と黄金トンネルが続きます。
黄金覆道の内部で右に分岐するのは旧旧道。旧旧道は岬の先端付近をトンネルなしで迂回して黄金トンネルの反対側に繋がります。路肩には漁師らの小屋が立ち並んでいます。旧道が閉鎖されていないのは漁業の妨げにならないようにとの配慮でしょうね。
黄金道路の建設には漁民の反対があったことは先に書いたとおりですが、広尾漁業組合長だった干場定五郎が彼らに「多少干場が減っても道路から受ける利益はそれ以上に大きい」と説得しました。黄金道路完成後、広尾線と併せ帯広まで4日の道のりが日帰りできるまでに縮まり、元反対派の人々は定五郎に深謝したそうです。
トンネルの向こうに海が見えるとなぜか旅に出たくなりますよね。あ、もう出てるか。
黄金トンネルの反対側の坑口。旧旧道は鞍部状になった岬先端を抜けているのが分かります。
この辺りの磯には折り重なる程の量の昆布が打ち寄せていました。ここらの漁師が本気出したら道民の主食は昆布になってしまうんじゃないかと杞憂する僕。
憂慮すべきは昆布の事より道の方。ルベシベツ覆道の入口が金網で閉鎖され、隅の隅まで入る隙がありません。
トンネル効果は、非常に微細な世界にある粒子が、古典的には乗り越えることができないポテンシャル(エネルギー)障壁を、量子効果すなわち、時間とエネルギーとの不確定性原理により乗り越えてしまう(透過してしまう)現象。(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)良く分かりませんが、今は全く関係有りません。
ルベシベツ覆道は1964(昭和39)年に延長30.0mの鋼製覆道が作られ、1973(昭和48)年からRC造が作られ始め、1986(昭和61)年には498mとなりました。
ここピンナイ付近は通称坂の下(ルーランシ)と呼ばれており、覆道の柱にもペイントされていました。海岸道路が出来る以前はこの先の海岸を行くことができなかったため、このピンナイから崖の上に登り、ルベシベツ川沿いに下っていたと言います。
ルベシベツ覆道から次のほしば覆道までの明かり区間はごくわずか。繋がってないのが不思議な程です。路面は高波に打ち上げられたであろう玉石が埋め尽くしています。
ルベシベツ覆道を振り返って。ここから見渡せる道はすべて覆道に覆われています。
ほしば覆道は1974(昭和49)年67.5mであったものが、1986(昭和61)年では504mになりました。もしルベシベツとほしばの覆道が繋がっていれば1kmを越える長大覆道になっていました。ほしば覆道には路面が陥没している部分があり、将来はキナウシトンネルみたいになってしまうんでしょうね。胸熱。
覆道の隙間からは塞がれていない美味しそうなトンネルも見えています。地名からチカプウシ隧道と呼ぶことにします。これは五郎右衛門の掘ったトンネルのひとつ。1986(昭和51)年の広尾町郷土研究会の調査によると延長24m、高さ約2.9m。「チカプウシ」を「シュウプテカ」・「シウプカチ」と記している資料も有りましたが、明治29年の1:5万地形図にある「シユウカプチ」を正しく読んだ「チカプウシユ」を和人好み味付けしたら「チカプウシ」ですね。
なぜもっと近づかないのかって?現在地から浜に降りるには高過ぎ、迂回路もないので上から観察するだけとなってしまいました。きっとあのブドウは酸っぱいに違いない。
旧道群を利用してあれ以上ほしばトンネル・チカプウシ隧道以北には到達できなかったので思い切ってルベシベツまでワープしました。ここから南に向かって攻めてみます。
右は現道のタニイソトンネル。左は重蔵トンネル。更に左には旧旧道と旧旧旧道のトンネルも有ります。
重蔵トンネルの名はもちろんルベシベツ山道を開いた近藤重蔵に由来しています。傍らに立つ石碑は「東蝦新道記碑」といい、ルベシベツ山道開削の顛末を記した「東蝦新道記」(十勝神社所蔵)の内容を刻んだものです。「東蝦新道記」「東蝦新道記碑」ともに文化財に指定されています。後世の史家に「蝦夷地道路開削の嚆矢」と言わしめたルベシベツ山道の北口の近くにあり、北海道の道路はここから始まったと言っても過言ではありません。
せっかく開口している重蔵トンネルですが、入坑せず左に歩みを進めると旧旧道・旧旧旧道のトンネルがあります。写真は旧旧旧道のトンネル。旧旧旧道のトンネルは五郎右衛門の掘ったトンネルで、1976(昭和51)年、広尾町郷土研究会の調査では延長15m、高さ2.9m。地名からルベシベツ隧道と言うことにしましょう。明治初期にここで波にさらわれ亡くなった方がいましたが、トンネルが出来てからはそういう痛ましい事故は無くなったそうです。穴がなぜか2つ開いてるのですが、おそらく一方は自然の穴なのでしょう。
旧旧道の写真は……あれ?撮ってなかったっけ?間違って消しちゃった?旧旧道のトンネルは削岩機とダイナマイトで掘り、ルベシベツにはコンクリート造の火薬庫が3箇所設けられていたそうです。
ルベシベツ隧道の反対側の坑口。坑口前に海岸の石が積もり、坑内は荒れています。僕の部屋ぐらい荒れてます。
ルベシベツ隧道とさっき撮り忘れた旧道の反対側の坑口。玉石を積んだ擁壁が第九号隧道と似ています。名前は第n号隧道だと思いますが、銘板は無いし資料は見つけられなかったし分かりません。隧道データベースではルベシベツ岬、北海道 道路トンネルデータベースでは名称不明となっています。広尾町郷土研究会がルベシベツトンネルと調査した際の資料では延長は26mと書かれています。2012-08-27追記 コンクリで閉鎖されたされた名称不明のトンネルは「第一号隧道」という名でした。
重蔵トンネルのこちら側はルベシベツ第1覆道に覆われています。
覆道の途中ですが金網です。重蔵トンネルを塞がずに、あえてここで塞いでいるのはやはり漁民への配慮でしょうか。
金網をすり抜けたら辿りつく第1ルベシベツトンネル。トンネルがこれなら別に金網要らないんじゃ。
覆道の外には波に洗われた旧旧道敷きがありました。擁壁はコンクリートで塗り固められていますが、その裏には玉石練り積みの擁壁が隠されていました。波の浸食が進行すれば第1ルベシベツトンネルの突出坑口が完全に宙づりとなり、いつかは口を開ける日が来そうです。現にもうクラックが入ってしまっています。
旧旧道の路面はすべて流されたわけでなく、ここは岩に守られ現存しています。
旧旧道のトンネルもコンクリートで閉塞していました。擁壁はもうおなじみとなった玉石練り積み。岩礁を迂回して向こう側へ行くのは、僕には無理なのでここで手詰まり。地図左(南)からはほしばトンネルまで、右(北)からは第1ルベシベツトンネルまで行けたので、未踏は両トンネルに挟まれた延長235mのルベシベツ第2覆道が路面を独り占めしている区間だけ。「第n号隧道」の時代には両トンネル間に2つのトンネルが地形図に載っています。しかし、今日出来ることはやったので、潔く諦めました。2012-09-26追記 ネットに未踏領域を写したと思われる写真がありました。しかも現役時代ですぜ。こちらからご覧あれ。
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関連記事
参考文献
- 道路情報館(編)、『黄金道路物語』、北海道開発局札幌開発建設部道路情報館、2004年
- 北海道開発局帯広開発建設部(監修)、『とかちの国道』、財団法人 北海道開発協会、1981年
- 北海道開発局帯広開発建設部(編)、『とかちの国道 第2巻』、北海道開発協会、1986年
- 田中克明・服部律子(著)、太田善繁・広尾町教育委員会(監修)、『山道と黄金道路』、広尾町郷土研究会、1998年
- 北海道土木技術会トンネル研究委員会(監修)、『北海道の道路トンネル 第4集』、北海道土木技術会、出版年不明
- 北海道道路史調査会(編)、『北海道道路史 路線史編』、北海道道路史調査会、1990年
- 北海道道路史調査会(編)、『北海道道路史 技術編』、北海道道路史調査会、1990年
- 広尾町史編纂委員会(編)、『広尾町史』、広尾町、1960年
- 広尾町史編さん委員会(編)、『新広尾町史 第2巻』、広尾町、1960年
- 広尾町教育委員会(編)、『広尾の文化財・改訂版』、広尾町郷土研究会、1999年
- 企画情報課(編集)、『新広尾町史資料』、広尾町、2003年
- zwiebel、『北海道 道路トンネルデータベース 国道336号』(http://www.hokkaido-douro.net/tunnel/R336/index.html)、閲覧日失念
- 『隧道データベース』(http://core.the-orj.org/tdb/)、閲覧日失念
- 日本貨幣商協同組合(編集)、『日本貨幣カタログ2006年版』、日本貨幣商協同組合、2005年
変更履歴
- 2012-01-06 脱字冗字修正
- 2012-05-17 誤字修正
-
2012-05-17
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新URL:http://morigen.pro.tok2.com/blog/?p=2197 -
2014-07-18
サーバ引越しに伴いページを移動
旧URL:http://morigen.pro.tok2.com/blog/?p=2197
新URL:https://morigen.net/blog/?p=2197 - 2016-01-02 リンク切れ修正
- 2016-02-19 本文中に追記
2013-11-20T10:48+09:00(JST)
はじめまして
自分で撮影した、五郎右ェ門隧道の写真から
偶然このページを見つけてコメ書いてます。
5歳の時から今年の春まで
えりもに住んで居ました
なので、黄金道路はかなり走っていました
自分でも結構詳しく知っていたつもりだったのですが
他の隧道やお地蔵さんの事
知らない事だらけで楽しく見させていただきました!
有難うございます!
2013-11-21T21:42+09:00(JST)
どうもはじめまして。
やっぱり車で走り抜けるのと歩くとでは見え方がだいぶ違いますよね。
徒歩の1回は車の100回分くらい良く見れます。
一生に一遍だけでも歩いてみるともっと楽しくなれますよ~!