様似山道と日高耶馬渓旧道ズ

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日高と十勝を隔てる日高山脈。この北海道の背骨の北端は大雪山系につながり、南端はそのまま海に没します。両側の交通は狩勝・日勝・野塚・追分の各峠がありますが、これらはいずれも山脈の端をなでるように越える峠で、日高横断道路の潰えた現在においては山脈の核心部分を貫く実用的な交通路はありません。
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日高山脈の南端には垂直な岩肌が海岸にそびえる地形が続き、交通の難所となっていました。以前積丹半島、余市-古平間の山道の事を書いたことがありましたが、そのような個所がこの地域にもあったのです。こちらに於いても道路開削初期の頃はやはり山道を抜けて難所を越えていました。日高山脈東側ではルベシベツ山道と猿留山道、西側には様似山道が知られています。
これらの山道の歴史はまだ北海道が蝦夷地と呼ばれ、和人にほとんど状況が知られていなかった1798(寛政10)年に始まります。この年江戸幕府は蝦夷地に調査団を派遣しました。調査は松前から択捉島に到る東蝦夷地の班と、松前から宗谷に到る西蝦夷地の班の二班に分かれて行うもので、東蝦夷地の班の往路でこれらの地域の交通は波打ち際の岩場を、波のタイミングを見計らって進むという難路でした。調査団は択捉島へ到達した後復路で再びこの地を通りますが、運悪く風雨が強まりルベシベツからビタタヌンケのルートは使えなくなり数日の滞在を強いられます。そこで調査団の一人だった近藤重蔵守重は同区間に3里(11.8km)の山道を開削しました。これがルベシベツ山道です。
翌1799(寛政11)年、東蝦夷地が江戸幕府の直轄地となり、各地で道路を開削し始めます。長万部・礼文華・厚岸・釧路の山道と共に、様似・猿留の両山道も幕府直轄の事業で誕生しました。これらの山道が開通したことにより、函館から根室までの太平洋岸を、馬で容易に旅する事が出来るようになりました。様似・猿留山道の開削は蝦夷地取締御用掛の大河内善兵衛政寿なる人物が監督し、工事の担当を中村小市郎意積(様似山道担当)・最上徳内常矩(猿留山道担当)ら、現場では南部からかき集められた人たちにより工事が行われました。開削は1年で開通させるという突貫工事だったため、1803(享和3)年に100日間で5,000人を投入した様似・猿留山道の修繕が行われています。両山道とも会所、後に場所請負人により、会所が廃止される1869(明治2)年まで管理されていました。会所廃止により山道の修繕はされなくなり、次第に荒廃して行きました。
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今日はこの様似山道を歩いてきました。赤い線がそのルートで、今はフットパスとして使われています。様似山道にほぼ沿っていますが、一部は実際と剥離していました。そのあたりの詳細はまた後で。尚様似山道と周辺の地名については甘藷岳山荘さんが大変詳しい。
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様似山道の東側の入り口は様似町幌満の幌満トンネル東側坑口。山道の入口を示す標柱や案内板があるだけでなく、国道から山道へ降りる階段も設置されています。階段の下には山道しかないのでどう考えても山道の為だけの階段。愛ですね。階段を降りたら幌満橋の下をくぐり幌満川に沿い上流へ向かいます。
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左手に深い谷と階段が見えてきたら、入林届に記入して登りましょう。
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地形図では谷に水線は描かれていませんが、実際はピラオンナイという沢が流れ下っています。山道はピラオンナイに沿って登って行きますが、道は甚だ不鮮明。とりあえず目印テープを見逃さないように登ります。
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ピラオンナイを途中まで上り詰めここから沢を離れます。ここからようやく道の形が現れました。
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倒れた電信柱に割られた碍子。この先定期的に落ちてました。
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道を上り詰めると勾配は穏やかになります。標高はおよそ170m。このあたりをサミットにして下りに転じます。
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下りの途中、道が2本に分かれて平行する箇所がありました。目印テープは左を歩かせたい様ですが、本来の様似山道は右の蛇行している方ではないかと思います。どちらを歩こうが、すぐに合流するので迷う必要はありません。
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緩やかに下れるのはここまでで、ここからは何重ものつづら折りで激下りです。いくつつづら折ったかは覚えてませんが、昔は17曲がりで下り、善兵衛返しと呼ばれたそうです。それほどこれから越える谷は深いのです。
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谷底の沢が見えてからもなかなか河床との標高差は縮まらず焦れったいですが、ようやく渡渉箇所が見えてきました。
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二手に分かれたルエランベツの沢を2度の渡渉で越えていきます。1度目の渡渉は特に問題ないですが、その先の山道が細く険しくなっています。昔の旅人やお馬さんは健脚だったのだなあ。
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これ、本当に馬が通った道なんでしょうか。『もののけ姫』のワンシーンが目に浮かびます。
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ルエランベツ2度目の渡渉。渡渉は特に問題ないですが、その先の山道が細く険しくなり過ぎて、目印テープがなければ道であるとは一目でわかりません。
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ダブル渡渉を終えた所。山道を赤く塗りましたが、塗らなければおそらくだれ一人として写真の中に道を見出せないと思います。山道があった当時も2度の渡渉があったかは分かりませんが、ここには橋が架けられていたそうです。の地形図(仮製版5万分1)では1度目の渡渉はルエランペ、2度目の渡渉はワヤシノナイという名の河川となっており、渡渉は一回ですませています。
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ルエランベツを越えた山道は再びぐるぐるとつづら折りで登って行きます。10曲がりって登るそう。途中東口から2kmを示す道標が寝ていました。
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坂が緩くなってきたところで波の音と水平線が枝の間にのぞきます。山道を逸れて寄り道すると100mの崖の上から日高耶馬渓を眺められるそうですが、高所恐怖症の僕はちょっと…… ここから緩い勾配の尾根を歩きます。
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登りは続き、2つ目の大きなサミットを迎えました。標高は180mを越え、様似山道で最も高所です。最高地点とは言えアポイ岳山麓の森の中であり、展望はありません。
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下り始めて間もなく、小さな尾根上のこの平場には宿があったそうです。原田安太郎幸孝は淡路に生まれ、明治4年東静内に入植。目名に移り開墾を始める一家から安太郎の夫婦だけがこの山道の真っただ中に移り、昆布漁の傍ら宿を営んだものということです。宿の下の方には耕作地があって自然薯を作っていたそうです。様似に宿を新築し、観音山付近に移り住み幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
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宿跡から歩くとすぐにコマモナイの渡渉があり、ここで東口から3kmを迎えました。ここにはかつては橋が架かっていたそうです。渡渉後もう一つ小さな尾根を越えます。
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5曲がりで小尾根を下って、もう少しでオホナイという沢を渡りますが、その前に泥まみれになってしまいました。
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オホナイの渡渉。さっきの泥はここで落としておきました。
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渡渉後、つづら折りで尾根まで登ります。かつては10曲がりで登ったそうです。尾根に登っては谷へおり、また登ってはくだりの山道ですがここは結構長い間尾根の上を行きます。
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尾根沿いに少しずつ下ってきた山道の勾配がやや増してきた所で中間地点の標識。距離にして3497.5m。
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尾根を北斜面に外れ、再び沢ヘと下りますが、地形図の道と実際の道はかなり食い違いがあります。山道時代はここを7曲がりで下ったそうです。
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下りきったところでオイオイという何ともヘンテコな名前の沢を渡ります。オイオイはルエランベツの様に2手に分かれた沢を2度の渡渉で越えていきます。先ほどから地形図とずれがありますが、ここでは地形図よりも下流を渡っています。
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オイオイ2度目の渡渉も地形図より下流を越えます。オホナイからオイオイまでの間に「ワッカサンベツ」という沢があったらしいですが、それらしいものは分かりませんでした。
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オイオイ後また登りに入りますが、途中で小川越え。チョロチョロとした小さな流れですが、岸がヌッチョヌチョに浸されていました。本日のベスト沼田場賞受賞候補です。
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この先の上り坂、水量こそありませんが、オーバーユース気味になった山道を水が流れ下って来ます。深く削れた路面がまるで水路の様になって排水が出来ていません。
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登って下って久しぶりの階段様のご登場。そしてその先は?
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森抜けたー!江戸の旅人と僕の心は今この瞬間一つに!右にも左にも昆布干場があり、遮蔽物の無い海を3時間ぶりに眺めました。
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足に硬い舗装の感触を辿ると丁字路に当たります。ここは直進して暗渠でコトニ川を渡るのが山道。山道時代もこれ程立派ではないにしろ橋があったそうです。直進せずに丁字路を左折すると国道にドロップアウトできます。地形図で別の川に「コトニ川」と書かれているのは多分誤記。
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両側に昆布干場の広い砂利敷きがまた現れたら、何やら物申したげな案内板が倒れてますが読めません。山道に関係がありそう無さそうな。おそらく心の綺麗な人にしか見えないのでしょう。(アソビホロケール山さんで在りし日の全文をご覧いただけます。っていうか山道全部見れます。)
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舗装路とはここでお別れ。山道は左の坂を駆け上ります。
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時期になれば昆布のソーラーパネルが広がるであろう干場。
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山道最後の上り坂。道はどう見ても直進してますが、山道は唐突に直角左カーブ。僕は間違って直進し、林道を冬島まで行ってしまいました。一説には冬島が西口ではないかともいわれているみたいですが、定説はオソフケシ付近だと思いますしフットパスもそうなってます。林道を抜けた僕は西口から再び入林してここへ戻り、何事もなかったかのように順路の模様を書いていきます。
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直角左カーブ後、林に入りますが一時的に開けます。左には足元まで崖が迫ってきます。もちろん手摺なし。海岸道路が無かった頃下はテレケウシという難所だったそうです。
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道は再び林間を行きます。右から接近し、平行していた小川をひとまたぎ。地図ではもう西口はすぐそこです。
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視界が開けたら下に見える青い屋根の建物が西口。山道のゴールです。
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急な下り坂を下り西口に到着。国道336号押木橋付近のオソフケシ(オシクシ)が西口です。地形図では「コトニ川」と書かれた川の河口ですが、おそらく「オキシンウス川」の誤記と思われます。∵『新様似町史』では押木橋の架かる河川は「オシキンウス川」となっているので。西口にはかつて山道開削のいきさつを記した碑がありましたが、一帯が松前藩になった際捨てられてしまったそうです。
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上の地図は現在の山道周辺の道の様子。小さな橋や開削されたトンネルは省いているので、更に多くの土木技術でガチガチに固められた現在の国道はどうできてきたのか。様似山道は前述の通り1869(明治2)年までは管理がされていた現役の道でしたが、その後どうなったのか。
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北海道庁の発足した猿留山道下に海岸道路が起工、竣工。翌には様似山道下の海岸道路が開削されました。この道は岩場には丸太を組んで土砂を充填し、岩が突出した箇所は発破で取り除くかトンネルを掘りました。トンネル工事は浦河の石工田中五作が請負い、11か箇所にトンネルが設けられました。またこれまで渡し船だった幌満川には橋が架けられました。この海岸道路は山道同様馬車が通れない道ではありましたが、完成により様似山道のシェアは一気に減少したのではないでしょうか。
道東に至る唯一の国道である国道43号としての指定を受けました。当時狩勝も日勝も峠道は開かれておらず、太平洋沿岸のルートは札幌や函館から釧路や根室に至る重要な路線だったのです。そんなこともあってか北海道庁の技師が様似山道下の調査を行いましたが、新たに道を開くのはほぼ不可能との判断を下し、地域住民の運動があり1914~1915(大正3~4)年にようやく補修が加えられました。
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になり路線は地方費道7号帯広浦川線に降格となりましたが、その重要性は変わらず改修工事がなされに完成しています。様似山道下ではに改修され自然石とコンクリートを使用した道に生まれ変わり、幌満橋も永久橋に架け替えられました。この道が如何なるものなのかその詳細は分かりませんが、地形図を見てみると小徑として描かれているので荷車は通れるようになっていたと思われます(荷車が通れないと「荷車ヲ通セサル部」として描かれる)。追記 冬島から幌泉までを3工区に分けた改修工事がからにかけて行われ、これにより海岸道路が車道化したそうです。
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時は流れ、二級国道236号帯広浦河線として再び国道に返り咲いた当路線。これ以降の詳細は全く調べられませんでしたが、に山中第二隧道、に幌満橋など不良個所を順次切り替えていったのではないかと思います。国道336号に指定された後、幌満トンネル、山中トンネルの2つの大きなトンネルと幌満橋が開通し現在の姿となります。
せっかくですからこれら旧道でも見ながら帰ってみます。諸事情により最も西に位置する東冬島トンネルの辺りは見てきてません。そう、山道西口の辺りで道間違えたせいで。東冬島トンネルは極短の旧トンネルの痕跡が車で走っていても分かります。
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山中トンネル旧道の入口。ご覧の通り、旧道の中に家があり閉鎖されていません。山中トンネルは愛称「小市郎トンネル」。小市郎?チャレンジでやったやつだ!ちなみに小市郎さんの6代目の子孫に中村誠一さんというジャズ奏者がいらっしゃいます。
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この道は2003年に旧道落ちしたばかりな上に、未だ生活道路としては現役ということで、写真だけ見たら現役国道と言われても何ら疑問を抱かない風景です。
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旧道入口からチラチラと見えていた旧道のトンネルは山中第二隧道。第二ということは第一も有るはずなのですが現存しません。旧版地形図をみると現在山中覆道がかぶさる箇所にトンネルが存在しておりこれを第一としていたのか。終点側に第一を配置するというのは疑問ですが。イレギュラーなので第二の起点側に僕の知らない山中第一隧道があったかもしれません。山中第二隧道前の看板に出ている通り、右の旧旧道を100m進むと山中第二隧道の旧トンネルともいうべきものがあります。 追記 ふと思ったんですが、山中第二隧道の旧トンネルを第一としていた可能性も無きにしも非ずですね。それから終点側に第一を配置するのは別段イレギュラーってわけでもないですね。
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旧旧道のトンネルは名称が分かりませんが、おなじみ北海道 道路トンネルデータベースでは「目梨泊2号」(多分目無泊2号の誤記)と推察しており目無泊2号はの竣工だそうです。僕の参照した資料にはこの年海岸道路を大規模に改修した記録はなくという竣工年は何かの間違いではないかと思います。追記 上にも書いたとおり、からにかけて車道化工事があったので、竣工年はなんら不自然さはありません。目無泊2号右手には旧旧旧道があり、田中五作がに開削したトンネルがあるそうですが、その事を後で知ったので見てきていません。ゴメンナサイ。
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トンネル壁面にできた岩石の模様。岩のことは(も)さっぱり分かりませんが、鑑賞するのは大好きです。
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トンネルを抜けると綺麗に並ぶ親子の姿。更に左には天命を全うした初代もあるんですね。
追記
初代に行ってきました。いや行ったのは9月なんですけどね。後で書こう→忘れる、風呂に入ってるとき思い出す→忘れる、買い物中思い出す→忘れる、飲み会中思い出す→当然忘れる、っていうことがエンドレスで続いて、結果3箇月遅れました。
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目無泊2号手前から右に分岐する旧旧旧道。積まれた薪の影に初代の坑口があるはず。
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ない。坑口の天井くらいの高さまで地面が高くなり、坑口付近はどう見てもゴミ捨て場。
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ならば反対側の坑口はどうかというと穴はしっかり確認できます。昆布の干場に気を付けながら近づいてみましょう。
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個人宅の物置っぽくなってますが、トンネルはその姿を留めています。
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埋ってる向こうの坑口で行き止まりののほんの短いトンネル。木の支保工は当初からのものでしょうか。外から見ただけで分かりますが、すごく天井が低いです。この写真は屈んで撮ってるので多少なりとも広く見えるはずですが、そうやってとっても子の低さ。天井の低さに加えて支保工から分かる通り微妙に曲がった線形は下で出てくる別の素掘りトンネルと特徴が一致しています。
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特に背が高くない僕が立ちあがっても目線は支保工を軽く超え天井に頭を擦ります。同時期に同じような状況で誕生した黄金道路のトンネルは高さ2.9mだったのにここはなにゆえこんなに低く作ったのでしょう。

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坑口すぐそばには一軒家があり、家の後ろには滝が一筋落ちています。円館の滝という滝で、山道で渡渉したオホナイの下流に当たります。
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かつてトンネルがあったと思われる場所にはに山中覆道が建設されました。トンネルの名は目無泊3号だと思っていますが、地形図に見るトンネルと道路トンネルデータベースを僕が勝手に結びつけたものでありまともな根拠はありません。
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トンネル跡疑定地には褶曲した角閃岩の塊。開削されたトンネルの残骸でしょうか。
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これから歩く様似八景の一つ日高耶馬渓の景。耶馬渓だけあって断崖ヤバいです。ヤバイいけど海岸だから「渓」ではないですね。
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山中覆道を出てから右に膨らむ旧道ですが脇にはどう見ても怪しい穴。
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坑口こそ土砂で塞がりかけですが内部は意外に綺麗に保たれていました。なぜか入ってすぐ右に退避帯の様な広場が設けられ、なぜかジグザクに道が敷かれています。目無泊4号トンネルと思しきトンネルが旧版地形図のこの付近に載っていますが、内部線形の歪さと言い狭さと言い目無泊2号トンネルとクオリティに差がありますし、道路トンネルデータベースでは目無泊4号トンネルの延長はたった5mとなっているので、このトンネルは明治年間に田中五作が掘ったトンネルではないかと思います。
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向こう側の明かりが見えないことからお察しの通り閉塞していました。
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外に出て反対側に回ってみると見事に坑口付近だけ土砂で埋もれていました。しかも法面は下から1.5m程まで間知石が積まれており、もし土砂崩れが無くても開口部は無かったかほんの僅かだったでしょう。
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旧旧旧道はトンネルをぬけるとすぐ旧道に合流しその旧道も現道の覆道へと吸い込まれます。ここまでは現道では山中トンネルとなっている旧道群。ここからしばし旧道は無くなり、覆道が切れた所でまた旧道が出てきます。
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さっきの御宅も滝が流れてましたが、こちらの御宅にも滝が!この辺りの家は一家に一滝がステータス?
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別角度から見るともうひとつ滝が見えてきました。まさかの一家に二滝。
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現道の覆道によりドライバーは頭上の危険を気にすることなく日高耶馬渓を通行できます。
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覆道を抜け幌満トンネルへと抜ける現道から右にそれていく分かりやすい旧道。「通行止め」とか「立入禁止」とか書かずゲートだけ閉じられています。閉鎖の理由は火を見るより明らか。
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ゲートの背後でいきなり2度のドンガラガッシャン。二度目は路面をすべて覆う規模。旧版地形図にはこの辺りにトンネルがあり、目無泊5号トンネルではないかと思います。
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崩落の上に登って見える2本の岩の塔は鵜の鳥岩という名勝。廃道になってしまっては旅行者の目を楽しませることも無いでしょう。
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崩落個所を振り返って撮影。余りに綺麗に切り取られた超自然的な光景はトンネルが撤去されてできたものなのでしょうか。
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遠目には良さそうに見えていた路面は打ち上げられたゴミや崩れてきた土砂や水で侵されていました。海面からそこそこの高さはあるのにこんな所まで波が来るんですね。その様が想像つかないのでちょっと見てみたい。
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標識に見る国道の名残。ここの岩は落ちると白から黒に変化するらしい。
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若干オーバーハングした岩の下を通り過ぎるとゲートがあり廃道は終わりです。崖錐に埋りつつある標識に予告された通り、左カーブで視界から消えています。
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左カーブを曲がると旧道の幌満橋が見えてきますが、何の変哲もない左の荒れ地には旧旧道と旧旧旧道が隠されています。道床が数m低いため知らない人は気づきませんが……
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旧旧道のトンネルは上辺だけ、旧旧旧道のトンネルは幌満橋の橋台脇に全体が見えているのです。旧旧道の方は目無泊6号トンネルと思われます。旧旧旧道のトンネルは、様似町史でこのトンネルから撮った写真に「幌満隧道から幌満橋を望む」というキャプションがつけられているので、幌満隧道でしょうか。
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旧道は幌満橋で一足早く幌満川を渡り、旧旧道と旧旧旧道はトンネルを抜けて一時河岸を上流にさかのぼります。旧旧旧道の道床は水面下に没していますが、「丸太を組んで土砂を充填し」の箇所だったのでしょう。両トンネルとも中には入りませんでしたが、どうしても中を見たい方は廃報アーカイブさんに行くと見れますよ。
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旧旧道と旧旧旧道は現道の幌満橋と旧道の幌満橋の間で川を渡っていたらしい。今右岸側に残っている橋台や玉石練積みの擁壁・高欄はに作られた旧旧道のもの。旧旧道の幌満橋は橋長が136.4mで、旧道の幌満橋がかけられるまで40年に亘り様似町最長の橋だったようです。旧道化してからは町道に降格した後頃撤去されました。旧旧旧道の橋は橋台も何も痕跡は無し。竣工時の写真から主径間がポニートラス*2だということが分かったんですが、位置は写真背景の岩の模様から同定を試みたもので、ちょっと自信ないです。追記 幌満橋はにも工事の記録あり。このときの橋長136m、有効幅員5.5m。架け替えでは無く旧旧橋の改修か?
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最後に旧道の幌満橋を渡ります。この幌満橋はに架橋された140.0mの橋。見た目にもガタは来ておらずまだまだ耐用年数は越えていないとは思いますが、如何せん先ほどの崩落危険地帯を通りますからねえ。
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旧道幌満橋を渡り終えると幌★満の市街地に到着し、旧道・旧旧道・旧旧旧道は現道に合流。これで幌満トンネルの旧道は終★了。
この後夜まで時間があったので幌満川の幌満峡に行ったんですが、ダムあり発電所あり廃物あり山あり谷あり渓流あり滝ありといろんなジャンルで大当たりな川でした。もう道自体も走ってて楽しかったし。これは何時かまた絶対来る!
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そんな幌満峡の橋の一つ。落石注意の看板や地覆だけの橋が林道感を醸し出していますが実は様似町道。そのほかは別段不思議な事もなく「単径間のコンクリガーダーが架かってるな」と思うだけですが、この橋をちょっと横から見てみると?
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橋脚が一本。「あー2径間だったのかー」と思いながら更に真横から見てみると?
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やっぱり単径間でした!

この記事の情報

参考文献

  • 『北海道新聞』、1994-07-01夕刊道央17面、「歴史刻み60年 その役目に幕」
  • 『道路の改良』、第18巻7号p132(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/18-07-0132.pdf)、「日勝幹線道の幌満橋渡橋式挙行」
  • zwiebel、『北海道 道路トンネルデータベース 国道336号』(http://www.hokkaido-douro.net/tunnel/R336/index.html)
  • 様似町史編さん委員会(編)、『様似町史』、様似町、1962年
  • 様似町郷土史研究会(編)『様似山道物語』、様似町郷土史研究会、1983年
  • 様似町史編さん委員会(編)、『新様似町史』、様似町、1993年
  • 北海道開発局帯広開発建設部(監修)、『とかちの国道』、財団法人 北海道開発協会、1981年
  • 北海道道路史調査会(編)、『北海道道路史 路線史編』、北海道道路史調査会、1990年
  • 有限会社花蘂水産、『日高耶馬渓の200年』(http://kasibe.com/samani-16.html)

変更履歴

  •  脱字・冗字修正、地方費道に路線番号を追加
  •  二級国道指定年の誤りを修正、二級国道に路線名を追加、重蔵をフルネームで表記
  •  誤字・脱字・冗字修正。全部で7箇所。これはひどい。
  •  本文中に追記
  •  山中トンネル・山中第二隧道の旧道のトンネルを新たに見てきたので文中に追記

  • サーバ引越しに伴いページを移動
    旧URL:http://iyokanmorigen.blog122.fc2.com/blog-entry-360.html
    新URL:http://morigen.pro.tok2.com/blog/?p=2195
  •  本文中に追記
  •  本文中に追記
  •  リンクのミスを修正
  •  本文中に追記

  • サーバ引越しに伴いページを移動
    旧URL:http://morigen.pro.tok2.com/blog/?p=2195
    新URL:https://morigen.net/blog/?p=2195

コメント

  • 匿名希望
    2011-05-22T17:59+09:00(JST)

    このコメントは非公開です

  • Morigen(管理人)
    2011-05-23T12:25+09:00(JST)

    藪から出た棒をすかさず受け止める匿名希望さん流石です。
    やっぱり役所関係、平日のみですか。
    詳しくご教授して下さりどうもありがとうございました。

  • 匿名希望
    2011-05-23T19:49+09:00(JST)

    管理人様、こんばんは。
    ご返信いただきまして、ありがとうございます。
    役所関係はどうしても平日になってしまいますね。
    開発局図書室の件、もっと早くお知らせするべきでした。申し訳ありません。
    様似山道・日高耶馬渓旧道、明確なご調査とご探索が重なった記事、「最高」の一言に尽きます。
    (感想としては短いですが、心の中で無限大に感動しております)
    これからもお体に気をつけて、いつまでもお元気でいて下さい。
    それでは失礼いたします。ありがとうございました。

  • Morigen(管理人)
    2011-05-24T12:04+09:00(JST)

    こんにちは。
    毎度マメなコメントありがとうございます。
    > 様似山道・日高耶馬渓旧道、明確なご調査とご探索が重なった記事、「最高」の一言に尽きます。
    > (感想としては短いですが、心の中で無限大に感動しております)
    調査とか探索だなんてそんな大層なものではありませんよ。
    僕は日記に付け焼刃がついたものと思って書いています。
    それでも匿名希望さんの御心に響いたようで感無量です。