先日の調べ事の内容

に人と余市町にあるトンネルを探検に行くことにしたので、そのトンネルについて少し調べて書いときます。え?いつもそんなことしないのに急にどうしたんだって?先日このブログで初めて匿名以外のコメントが付いたんですが、そのコメ主さんとトンネル行くことにしたんですよ。イェーイ隅田川さん見てるー?まぁこんな感じでテンション上がっちゃってさ。


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この度行ってくるトンネルは積丹半島の東側、余市町潮見町と同町豊浜町の境にあるトンネルです。現在同区間を通行するには国道229号の「滝の澗トンネル」という便利なトンネルがありますが、この旧旧道のトンネルがこの度行くそれです。しかし上の地図を見てもらえば分かる通り現在同地に坑口の記号はありません。日本の道路トンネルを網羅した隧道データベースにも、道内のトンネルを網羅した北海道道路トンネルデータベースにもそれらしいトンネルは掲載されていません。本当にそんなトンネルあるの?
このトンルについて知るため少しこのあたりの道路の歴史について調べてみました。このトンネルを知るきっかけとなった北海道 道路レポート”カントリーロード”さんの掲示板を頼ってサイトに行ってみたら、いつの間にやら掲示板だけ閉鎖しちゃってたので図書館行ってきて調べてきました。


旧旧道時代以前
積丹半島の海岸は断崖絶壁が連続する険しい海岸線と海の間近まで迫る急峻な山によって陸上交通が疎な地域でした。かつてはアイヌたちがわずかな平地に砦や船着き場が築き、それぞれは踏分け道(ルー)によって連絡されていました。時代が下り和人が定着すると漁業を束ねる運上屋が各地に設けられ、運上屋どうしや場所請負人の居住地を結ぶ道としてこれまでの踏分け道を改築していきました。1778(安永7)年には積丹郡~美国郡小泊村、1799(寛政11)年には尻別川~島牧村などの道が開かれ現在の国道の原型ができてきます。しかし島泊(現在の潮見町)~湯内(現在の豊浜町)付近の道が整備されるには時間を要しまして、1845(弘化2)年に余市のモイレ運上屋から湯内(現在の豊浜町)まで山道が開かれました。1855(安政2)年に余市と沖村(現在の沖町)、には札幌と古平を結ぶ道が敷かれましたが、これらはいずれも刈分け径程度のものだったでしょう。


旧旧道時代
に刈分け径を改修する計画が持ち上がり、結果、刈分け径に毛が生えた程度の道ができました。
2010081003.png(5万分1地形図「濱町」明治25年製版)
その時の道がこの地形図にある道と思われます。点線で縁取られた小路として描かれています。もちろん車など通ることはできなかったでしょう。これではさすがに時代遅れ過ぎたのか、に古平町長が小樽支庁に「はよマシな道作らんかい」と仮定県道開削の上申を行っています。この仮定県道はに稚内から函館に至る「仮定県道西海岸線」として告示されます。そして余市~古平にマシな道が完成したのがのこと。マシな道といってもそれまでの道より5kmほど延長が伸び、湯内(現在の豊浜町)~沖村(現在の沖町)は利用者が少なかったというオチが付いています。そして大事なのがこの時の地図。
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古平町史に載っていたこの地図をみると画像の真ん中あたりに「隧道」の2文字が見えます。これが行ってくる予定のトンネルですよ。現在の地形図とにらめっこしてみるとトンネルの位置ははここではないかと推測できます。ここを地形図で見てみましょう。
2010081005.png(5万分1地形図「古平」大正8年1月30日発行)
島泊(現在の潮見町)から伸びてきた道はサミットをトンネルで抜けて、湯内(現在の豊浜町)の市街地へは下らず山の方へと伸びています。そのまま山の方を大きく回って沖村(現在の沖町)へ至っていました。一世代前の山道はトンネルを出たら湯内へ下ってそのまま湯内峠へ登ってるので、確かに新しい方が遠回りになっています。最急勾配6%で有効幅員1.7mの箇所もあり1年峠と呼ばれていたそうです。通るたびに寿命が1年縮むってことか?2011-05-29追記 360余りのカーブがあるから1年峠と言うみたいです。積丹国道調査資料によると余市町梅川町~古平町沖町には半径100m未満のカーブ・見通し65m未満の箇所が合計672箇所!突っ込みどころはもう一つあります。新しい道は幅3.3mの車道として計画してたはずだったんですが、地形図の記号は「実線と破線で縁取られた道」=「荷車ヲ通セサル部」。車通れません。アチャー。、余市~美国(現在の積丹町)の車道を開削するための調査機関を設置するようにという建議案が古平町会に出ていることからも、本当に車が通れなかったということが推測できます。
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昭和初期になりバスの運行が開始されるに先駆け、1年峠を部分的に整備補修して、小型乗用車のバスが走るようになりました。この時の1年峠の実態は

馬車がかろうじて好天の日通行する程であった。現状は蛇行急こう配の連続で巾員は1.7m~2.5mのヶ所が多く夏季のみの道路であった。特に余市梅川町~古平町沖村間は険悪で湯内峠の山道と深い渓谷を小型乗用車がバス替りに通行始めてからは沿道の利用者からこの区間の危険を重視して、改良の声が日増しに強まった。(佐藤茂治(他)編、『後志の国道』、財団法人北海道開発協会、1989年、p.246)

と改修したのに危険になったという有様。アチャー。でも一応馬車や車が通れるようになりましたね。海上交通の町に車が入ったのは大進化です。


旧道時代以降
次の時代はさらなる大進化が起きます。
2010081006.gif(5万分1地形図「古平」昭和35年6月30日発行)
山道の記号は「実線と点線で縁取られた道」=「小型自動車道(1.6m以上)」になっています。そしてこの地形図で大きく変化した点は海岸を通る車道が開通したことです。山道は、美国町(現在の積丹町)から余市町に至る地方費道入舸余市線の路線に指定され、終戦後、全道的な道路開発の波に乗りに海岸部を通るルートが着工しました。すなわち滝の澗隧道や豊浜隧道の建設です。区間にはトンネルが多数あり、未発達な技術と不慣れな工事によって多数の死者を出したそうです。1年峠の沿岸部には滝ノ澗隧道が設けられに竣工しました。すべての工事はに竣工を見て、山道の半分まで経路を短縮しました。特に湯内(現在の豊浜町)から沖村(現在の沖町)に至る湯内峠の区間は30分の経路を5分まで短縮できました。
2010081008.jpg(2.5万分1地形図「豊浜」昭和43年4月30日発行)
前掲の昭和35年6月30日発行の5万分1地形図を最後に5万分1地形図から1年峠が姿を消したので2.5万分1地形図に乗り換えです。こちらの1年峠にはトンネルは描かれなくなりました。そしてトンネルから豊浜町側の道は「破線」=「小道」に降格になっています。この話には関係ありませんが豊浜隧道のトンネル部分が3本から2本に減っているのが気になります。
2010081009.jpg(2.5万分1地形図「豊浜」昭和51年2月28日発行)
そして最後は1年峠がすべて破線になり、現行の地形図と同じになりました。海岸の滝ノ澗隧道はその後付け替えが行われ、に新しい滝の澗トンネルが開通しました。これが現在も供用されているトンネルです。
ここまでトンネル周辺の道路のことを書いてきましたが、実際に目的のトンネルの姿を描き出した図も写真も一切ありません。言葉ですら触れられておらず、地図にしかトンネルの姿を見つけられませんでした。そのトンネルを実際に歩いた方がおられます。この趣味の方々には超おなじみ堀淳一さん。堀さんは著書『北海道 隠れた風景-地図を紀行する』の中でに余市町梅川町~同町豊浜町まで歩いた時のことを書かれています。それによると梅川町からトンネルまでは一部藪化しているもののほとんどは徒歩で問題なく通れ、トンネルを出てから豊浜町まではひどく荒れているようでした。
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トンネルは前後に土砂や落ち葉が積もっているものの内部はきれいにされており、壁はモルタル吹き付けが施されていたそうです。また堀さんはこれ以前(時期は書かれていませんでした)にも行かれたそうですが、その時は潮見町~トンネルの道は藪で、トンネル内部は荒れていたそうです。その間に誰かが手を加えたみたいですが、誰が何のためにしたんでしょうね。その辺のことは分かりません。2013-01-08追記 このブログに時々コメントを下さっている方がこのトンネルに行かれ、その模様を写真付きでブログに書かれています。こちらからどうぞ。
結局のところトンネルの正体は分かりましたが、その名前・竣工年・延長・幅・高さといった基本的スペックは何一つ見つけられませんでした。まぁ知らなくてもトンネルまで行けなくなるわけじゃないですから、後は現地に行ってみるだけですね。


2010-09-08追記
昭和43年発行の地形図を提示したところで「この話には関係ありませんが豊浜隧道のトンネル部分が3本から2本に減っているのが気になります。」と独り言をこぼしてますが、この現象についてコメントを頂きました。そのコメントは非公開(管理人にだけ見える)でお寄せいただいたのですが、ご覧の方々の中にも豊浜トンネルの秘密を知りたいとお思いの方がいらっしゃると思いますので、コメント投稿者さんに許可を頂いて公開させて頂きます。

豊浜隧道について
管理人様、はじめまして。おはようございます。
蛸穴ノ岬を貫いていた豊浜隧道は、もともと4本の隧道(各々、1950年着工・1950~1951年素掘貫通・1952年末頃に内部壁面コンクリート施工完成)だったようです。
これらの隧道は、1953年春頃に先行開通した古平町沖(セタカムイ付近)~余市町湯内(現在の豊浜)間、約3.1Kmの一部とのことです。
その後、崩落の危険性が危惧され、1957年よりこれら4本の隧道を1つの隧道に結合する工事が始まりました。
1957年内は、4本⇒3本の隧道にとどまったようです。
翌1958年も、通行規制をかけながら結合工事が継続され、同年10月に豊浜隧道として完成したそうです。
ただ、これには異説があるようです。
便宜上、豊浜隧道は1958年10月完成となっておりますが、実はその後も結合工事が継続され、1964年に本当の完成をみたという説もあります。
地形図上で3本⇒2本の隧道になっていましたのは、もしかしたらその関係かもしれません。
実際のところ、私も詳しいことは分かりません。
ただ、地形図を考慮しますと、1964年完成説が正しいのかもしれません。
匿名でのコメントならびに長文、大変失礼いたしました。
なるほど。地図のミスとかそういうのを疑ってたんですが、トンネルどうしをくっつける工事があったのですね。匿名・長文大歓迎ですのでこれからもどうぞよろしくお願いします。

2010-11-18追記
何時だったか忘れてしまいましたが、8月半ば頃潮見町から旧旧道に上がって下見した事を急に思い出したのでメモメモ( ..)φ 潮見町から旧旧道までは地形図では微妙に道が接続していませんが、実際には激坂ながら自動車も通行できる様になってました。旧旧道に入ってからトンネル方向はバッチリ新しい轍クッキリで、それもそのはず沿線の学校跡地が耕作地として利用されておりオーナーのオジさんがパジェロで乗り付けていたのでした。道は畑の前から無くなり大自然に帰っています。オジさんによると以前一度トンネルまで刈り払いしたけど、それ以後はほったらかしになり現在に至っているそうです。トンネル行きたいなら藪が少ない春においでとのことでした。

この記事の情報

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参考文献

  • 古平町史編さん委員会(編)、『古平町史第一巻』、古平町役場、1973年
  • 古平町史編さん委員会(編)、『古平町史第二巻』、古平町役場、1977年
  • 北海道開発局小樽開発建設部(監修)、『後志の国道』、財団法人北海道開発協会、1989年
  • 堀淳一、『北海道 隠れた風景-地図を紀行する』、北海道新聞社、2001年

変更履歴

コメント

  • 匿名希望
    2010-09-02T07:49+09:00(JST)

    このコメントは非公開です

  • Morigen(管理人)
    2010-09-06T00:58+09:00(JST)

    どうも始めまして。お返事遅れて申し訳ありません。
    短い夏を満喫するためあちこち飛び回っていたもので。
    このたびは大変有用な情報ありがとうございます。
    しかし「管理者にだけ表示を許可する」にしてしまうとは勿体ないですよ。
    きっとこの情報を欲している方は他にもいらっしゃると思います。
    そこでご教授頂いた内容を他の皆様にもご覧頂けるように、何らかの形で公開したいのですがよろしいでしょうか?
    突然不躾なお願いをしてしまいましたがよろしくお願いします。

  • 匿名希望
    2010-09-06T22:57+09:00(JST)

    管理人様、こんばんは。
    ご返信の時期について、どうか気になさらないで下さい。
    私のような者にもご返信していただき、それだけでも大変感謝しております。
    もし私の情報をご希望いただく人がいらっしゃるのなら、とても喜ばしいことです。
    私の情報などでよろしければ、ぜひご公開ください。
    何一つ不躾な点はございませんので、ご安心ください。
    これからもお体に気をつけて、お元気に過ごしてください。
    それでは失礼いたします。

  • Morigen(管理人)
    2010-09-08T20:36+09:00(JST)

    ありがとうございます!
    先ほど追記に公開させて頂きました。
    匿名希望様もお元気でお過ごしください。

  • 匿名希望
    2011-02-11T22:39+09:00(JST)

    管理人様、こんばんは。お久しぶりです。
    勝手で申し訳ありませんが、こちらにもコメントをさせて下さい。
    (滝の澗隧道)
    1951年12月・古平側坑口から掘削開始。68mまで進む。
    1953年頃・掘削を再開し、同年12月に貫通。
    1954年10月・竣工。L=385m
    1957年2月・古平側坑口で大規模な岩盤が崩落。幸い犠牲者はなし。
    1957年春・上記の崩落を受け、災害対策工事を開始。
    1958年頃・坑口の巻立工事等が完成。L=414m
    2000年10月・滝の澗トンネル完成に伴い廃止。
    (豊浜隧道)
    この隧道は当初、余市側から見て、竜仙洞隧道(66m)・湯内隧道(365m)・蛸穴隧道(108m)・見晴隧道(28m)の異なる4つの隧道でした。
    1950年頃・湯内隧道で崩落があり、作業中の2名が下敷きになり死去。
    1951年8月・湯内隧道が貫通(13日)。これにより、4本の隧道すべてが貫通。
    1952年3月・十勝沖地震発生。内部が崩落し、年内に寒中コンクリート養生施工が完成。
    1953年春・供用開始。
    1957年頃・災害対策による隧道結合工事が開始。年内は、竜仙洞と湯内が合体し、466mの竜仙洞隧道として完成。また、蛸穴隧道は141m、見晴隧道は70mになったものと思われます。
    1958年10月・便宜上では豊浜隧道として完成。しかし、この時点で、蛸穴と見晴が合体し、3本→2本の隧道になったかどうか、もしくは本当に1本の隧道だったかは不明です。
    1964年秋・正真正銘の豊浜隧道として完成。L=746m
    1984年12月・豊浜トンネル完成により廃止。
    (参考文献)
    ・後志の国道
    ・積丹国道調査資料
    ・北海道新聞後志版1951年1月~1958年12月
    前回のコメントと重なる部分があり、申し訳ありませんでした。

  • Ricky
    2011-02-25T16:06+09:00(JST)

    このコメントは非公開です

  • Morigen(管理人)
    2011-02-25T19:47+09:00(JST)

    どうもこちらこそはじめまして。伝説のトンネルに行ってきましたか。
    靴を濡らすのは想定内です。私も早く行きたいです。
    それにしても例のオジサンはこの季節に畑で一体何をされていたんでしょうw