前回最後に出した喜茂別駅裏の車掌車の倉庫は跡形も無くなってました。そんな喜茂別を出発していきます。
喜茂別駅を背に真正面には羊蹄山。尻別川水系の作った盆地のど真ん中にぽっこりそびえる周辺地域のシンボルです。胆振線はこの山の北側をぐるり半周し終点倶知安を目指していきます。
駅を出た直後は段丘と尻別川の間の狭隘な平地に線路と道路と畑を敷いたため、廃止後の胆振線はあまねく道路の改良や農地転換されることとなりました。手元の地図と景色を交互に見ながら進みます。
留産駅跡。駅と分かるものは何も無し。駅の北側(写真奥側)に100mばかし笹薮をかぶった築堤が残されているのみです。
築堤は道路を渡った向こう側ではすっかり削り消され畑になっています。
畑を回避してしばらくぶりに線路跡に足を踏み入れることが出来たのは次の駅が遠くに見え始めた頃です。
駅の手前、水路をまたぐ小さな橋が残っていました。塗装記録表はありますが橋梁名は記されておりません。橋歴板によると日本橋梁が1928(昭和3)年に作ったとあります。ここに鉄道が開通したのは1928(昭和3)年1月26日であり、橋歴板が本当なら開通間近に架かったことになります。
この橋の隣にはもう一つ橋台が並んでいました。ここは複線ではないし、すぐそばの駅も1線のホームしかなかったはずです。どういうことなんでしょう。廃線後に桁をはずすにしても一つだけ残す意味が分からないし。複線化を見越して橋台だけ作っておいたのでしょうか。
南京極駅のあと道路化、荒地化、農地化と三度姿を変える胆振線。
カシップニ川橋を越えてから200mだけ線路跡がそのままの姿で残っていました。その中に木製の距離標が立っています。かなり薄れてしまっていながらなんとか「67」の数字が読み取れました。伊達紋別起点67kmの甲号距離標です。
再び畑へと戻った胆振線。一面畑の中こんもり残っている橋台と築堤の跡。オロッコ川を渡る橋の跡です。遠くてよく見えませんが橋とは思えぬ小さな鉄骨が渡してあるだけで桁は現存しないようです。
東京極駅跡。ここは堤も削り取られ駅舎も駅前の雰囲気もありません。
東京極駅からは道路の付替えや水路の新設で全く線路跡は消え去っています。ワッカタサップ川を渡る橋もものの見事に橋脚跡すら見つかりません。
図書館や体育館を兼ね備えたこの大きな公民館は当時は無かったはず。この建物のすぐ脇が線路の跡なのですが建設時に跡形も無く整地されてしまったようです。
京極駅跡は農協の大きな集出荷施設郡が立ち並びます。この駅が開かれた当時はこの町は「東倶知安村」といっていました。この駅が京極農場の一角にあることから駅名を京極とし、後に村までもが京極を名乗ることになります。
築堤の突端からは平々内川橋がペーペーナイ川を渡っていたはずです。
築堤の行き着く先は軽川トンネルになっています。おろえんトンネル以降最初で最後のトンネル。胆振線中で最も早い1919(大正8)年に開通した区間にあり、当然同線最古のトンネルです。
一面コンクリで塗り固められたと思いきや扉によって出入りが出来るようになっていました。もちろん施錠されています。軽川トンネルは売りに出てるので好奇心旺盛なお金持ちは買って中を見てみましょう。