積丹1周袋澗旅(結)

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積丹半島にある袋澗は112箇所。そのうち5箇所を除く107箇所の袋澗を観察できました。その他の後志地方、岩内町・蘭越町・寿都町・島牧村では42箇所。最盛期には磯谷から島牧までおよそ50の袋澗が建設されたそうなのでここでもそこそこ良い訪問率になったと思います。檜山地方せたな町では5箇所、函館市は3箇所。合計すると157箇所の袋澗を見てきました。現在知られている袋澗数は約300だそうです。そのうち利尻島35箇所・礼文島60箇所・奥尻島20箇所を引くと残りは185。ですのでこの袋澗めぐりで約85%の袋澗を見られたことになります。これだけめぐってみると分かったことや気付いたことがいくつかあるのでメモしておきたいと思います。ただし僕は研究者でもないしろくな学も無い人間ですので、小学生の自由研究とでも思って上から目線で見てやってください。

袋澗の地域的特長

積丹半島の袋澗のほぼすべてと、後志地方の多くの袋澗を見てちょっと地域性があるように思えた点があるのでまとめてみます。見ていただけると分かるように積丹半島とそれ以外では特徴に違いがあることが分かってきました。密度は神恵内村・泊村のみで高く、全体的に間知石布積みが多いものの寿都町・島牧村では他の積み方もされ、巻き天端は積丹半島では見られませんでした。なお、積丹半島にあっては袋澗現役時代に著された『積丹半嶋袋澗調査圖』と現地の案内人を伴って行われた『積丹半島の「袋㵎」』によりかなり網羅的に調査が行われましたが、それ以外の地域では現在まで形が残っているものを拾ったに過ぎず、今後の調査によって値が大きく変動する虞があることを付け加えておきます。

袋澗の密度

市町村箇所数/海岸線延長(割合)
余市町 1/21.07(21.07km/1箇所)
古平町 1/12.79(21.79  〃  )
積丹町16/57.15( 3.57  〃  )
神恵内村54/36.25( 0.67  〃  )
泊村40/21.55( 0.54  〃  )
岩内町 5/20.26( 4.05  〃  )
蘭越町 1/ 4.50( 4.50  〃  )
寿都町17/34.66( 2.04  〃  )
島牧村20/56.17( 2.81  〃  )
旧瀬棚町 5/30.50( 6.10  〃  )
旧戸井町 3/18.93( 6.31  〃  )
袋澗の密度は激しく地域差がつきました。神恵内村・泊村の2村が突出して密度が高く、ニシン網元の栄華を物語っています。また各町村とも袋澗は北から西の海にかけて面しているものがほとんどでした。寿都町東部では北西に面した袋澗が多数存在する反面、湾を挟んた西部は北東に面し、ここでは1箇所しか袋澗らしきものを見つけられませんでした。ここから弁慶岬をを挟んでまた北西面に出ると再び袋澗が密集しています。積丹半島ではこうした海に面する方向と袋澗の関係が顕著で、東部にはほとんど袋澗が無い一方、西部にはほ100箇所ほどの袋澗が密集します。余市町・古平町は全体が東の海に面している関係で袋澗の密度が極端に低くなっています。逆に神恵内村・泊村は全体が西の海に面しているため極端に高い数字になりました。
市町村ニシン漁獲量(割合)
余市水産組合  2,967,280貫( 58,874.60貫/1km)
古平水産組合  3,405,800 ( 85,123.72 〃 )
美国水産組合
積丹水産組合
 18,681,595 (266,461.21 〃 )
古宇水産組合103,449,402 (775,192.22 〃 )
東西海岸によるこの極端な片よりは単に漁が行われているかどうかという違いではありません。ためしに1912(大正元)年における各水産組合の漁獲総数を見てみましょう。上と同じく海岸線長で割ってみます。東西の違いを見るため積丹半島だけ抜き出しました。古宇水産組合が半島の西海岸でその他が東か北海岸。袋澗の密度は40倍ほど差がついていましたが、漁獲量は高々13倍の差しかありません。つまり袋澗の築造は漁獲量が多いからという理由だけではないようです。そこで気象庁が神恵内で行っている風の統計を見ると最大風速風向はほとんどが北西から南西にかけてで、西風を中心に吹いておりました。つまり積丹半島には西から波や風が吹き付けるのです。これは積丹半島の西海岸に袋澗が集中していることに大きく関わりがありそうですね。それから積丹半島海岸部の地形を見てみると、波蝕棚と海食崖も関係してそうです。積丹半島東側は波蝕棚が少なく高い海食崖が海岸のすぐそばまで接近することが多く、袋澗を作るには向いていなさそうです。逆の西海岸は海食崖が比較的低く、その下には波蝕棚が広がり、岩を穿って作る袋澗にはもってこいに思えます。

袋澗の平面形状と堤の有無

積丹半島及び磯谷・美谷地方 離島の袋澗の現況と保存課題』では袋澗の平面形状を「ハコ系統」「ハサミ系統」「複合系統」、そして堤の無い「切澗系統」に大別しています。これに倣い町村ごとに各系統を数え上げ割合を調べました。S1-99は『積丹半島及び磯谷・美谷地方 離島の袋澗の現況と保存課題』の調査結果をそのまま使用、その他は僕の主観によります。母数の少ない町村を無視するとハコ系統が多い中で島牧村だけが切澗系統が飛びぬけて多くなっています。
市町村ハコ系統ハサミ系統複合系統切澗系統
余市町100.00%( 1/ 1箇所)  0.00%(0/ 1箇所)  0.00%(0/ 1箇所)  0.00%( 0/ 1箇所)
古平町100.00 ( 1/ 1  )  0.00 (0/ 1  )  0.00 (0/ 1  )  0.00 ( 0/ 1  )
積丹町 93.75 (15/16  )  0.00 (0/16  )  0.00 (0/16  )  6.25 ( 1/16  )
神恵内村 64.81 (35/54  )  3.70 (2/54  )  7.41 (4/54  )  1.85 ( 1/54  )
泊村 62.50 (25/40  ) 15.00 (6/40  ) 12.50 (5/40  )  7.50 ( 3/40  )
岩内町 20.00 ( 1/ 5  )  0.00 (0/ 5  )  0.00 (0/ 5  ) 40.00 ( 2/ 5  )
蘭越町  0.00 ( 0/ 1  )  0.00 (0/ 1  )  0.00 (0/ 1  )100.00 ( 1/ 1  )
寿都町 52.94 ( 9/17  )  0.00 (0/17  )  0.00 (0/17  ) 29.41 ( 5/17  )
島牧村  5.00 ( 1/20  )  0.00 (0/20  )  0.00 (0/20  ) 90.00 (18/20  )
旧瀬棚町 40.00 ( 2/ 5  )  0.00 (0/ 5  )  0.00 (0/ 5  ) 20.00 ( 1/ 5  )
旧戸井町 66.67 ( 2/ 3  ) 33.33 (1/ 3  )  0.00 (0/ 3  )  0.00 ( 0/ 3  )


1つの袋澗に含まれる澗の数

市町村割合
余市町 0.00%(0/1箇所)
古平町 0.00(0/ 1)
積丹町18.75(3/16)
神恵内村 7.41(4/54)
泊村20.00(8/40)
岩内町 0.00(0/ 5)
蘭越町 0.00(0/ 1)
寿都町35.29(6/17)
島牧村30.00(6/20)
旧瀬棚町20.00(1/ 5)
旧戸井町33.33(1/ 3)
欠番9のように1つの袋澗に水域が複数あるものの割合です。母数の少ない町村は参考にしかできませんが、寿都町・島牧村の割合が高くなっています。また袋澗数で郡を抜いていた神恵内村と泊村ではなぜか倍以上の差が生じています。また水域の形は積丹半島においては増築したかの様なややいびつな形が多い反面、寿都町・島牧村では初めから2つの水域を持って作られたように見え、形は整ったハコ型のものが大多数です。

石垣の石材

現存した堤はコンクリートで補強したものはありましたがすべて石積みであり、往時からコンクリートのみで作られていたと思われるものはありませんでした。『積丹半嶋袋澗調査圖』ではコンクリート製や石枠と記されているものがありましたがこれらは現存していません。よって現存する石積みのみを比較して地域性があるか見ていくとともに、石垣の構造について整理しておきたいと思います。といいますのも石垣用語は統一されておらず文献により定義が異なっているので、この場だけで通用する石垣用語を再定義しておきたいのです。なお崩壊の激しく構造を特定できなかった袋澗と、護岸工の石垣は除いてあります。また1箇所の袋澗に複数の構造が複合して使われている場合はそれぞれに数を加えています。
市町村割合
余市町100.00%(1/ 1箇所)
古平町  0.00 (0/ 2  )
積丹町 25.00 (1/ 4  )
神恵内村  0.00 (0/22  )
泊村  0.00 (0/16  )
岩内町  0.00 (0/ 1  )
蘭越町  0.00 (0/ 0  )
寿都町 22.22 (2/ 9  )
島牧村  0.00 (0/ 3  )
旧瀬棚町  0.00 (0/ 0  )
旧戸井町  0.00 (0/ 3  )

20150914123512DSC_0807-2.JPG
自然に存在する石をそのまま用いたものを「野面石」と呼びます。礫海岸では現場で材料が手に入り、且つ無加工で使用するので安価で多用されていそうですが、以外にその数はごくわずかです。しかも野面石だけで出来た袋澗は無く、すべて他の石材と併用されていました。


市町村割合
余市町 0.00%(0/ 1箇所)
古平町 0.00 (0/ 2  )
積丹町 0.00 (0/ 4  )
神恵内村 9.09 (2/22  )
泊村 0.00 (0/16  )
岩内町 0.00 (0/ 1  )
蘭越町 0.00 (0/ 0  )
寿都町33.33 (3/ 9  )
島牧村 0.00 (0/ 3  )
旧瀬棚町 0.00 (0/ 0  )
旧戸井町 0.00 (0/ 3  )

20150914150700DSC_0011-2.JPG
積みやすさなどを考慮し自然石をある程度不定形に加工したものを「割石」と呼びます。これも礫海岸では現地で材料が手に入り安価で出来そうですが、同じく利用例はごくわずかでした。


市町村割合
余市町100.00%( 1/ 1箇所)
古平町100.00 ( 2/ 2  )
積丹町 75.00 ( 3/ 4  )
神恵内村 95.45 (21/22  )
泊村 93.75 (15/16  )
岩内町100.00 ( 1/ 1  )
蘭越町  0.00 ( 0/ 0  )
寿都町 44.44 ( 4/ 9  )
島牧村 75.00 ( 3/ 4  )
旧瀬棚町  0.00 ( 0/ 0  )
旧戸井町100.00 ( 3/ 3  )
20150914140354DSC_0937-2.JPG
日本伝統の間知石積みに用いる加工石を「間知石」と呼びます。間知石は底面を表に出した四角錐台を基本としてします。しかし実際には四角錐台ではなく四角錐に加工されていることが多く、底面は四角とも限りませんでした。堤の中に埋まっている部分を「控え」と呼ぶのですが、控えの長さが非常に短いものもありました。表面に露出した面を「 つら」と呼ぶのですが、多角形に近いものもありました。これら千差万別な形を持つものすべてを間知石として数え上げてみたところ、大部分がこれに属しました。


市町村割合
余市町 0.00%(0/ 1箇所)
古平町 0.00 (0/ 2  )
積丹町 0.00 (0/ 4  )
神恵内村 4.55 (1/22  )
泊村 6.25 (1/16  )
岩内町 0.00 (0/ 1  )
蘭越町 0.00 (0/ 0  )
寿都町11.11 (1/ 9  )
島牧村 0.00 (0/ 4  )
旧瀬棚町 0.00 (0/ 0  )
旧戸井町 0.00 (0/ 0  )
20150803164938DSC_4108-2.JPG
同じく加工を加え定型に整形したものに完全な直方体のものもあり、これは「布石」と呼びます。大きなレンガみたいなものです。これの利用例はわずかに3例しか見つけられませんでした。

市町村箇所数
余市町0
古平町0
積丹町0
神恵内村2
泊村0
岩内町0
蘭越町0
寿都町2
島牧村5
旧瀬棚町2
旧戸井町1
20150915140148DSC_0388-2.JPG
澗の入り口などにに設置され、向かい合わせに1対置かれたスリットの入った石材を「溝石」と呼ぶことにします。欠番17に写る人物に話をうかがったところ、溝に板をはめ込み、澗の内外を仕切るための石だそうです。というわけで堤体そのものに使われた石ではありません。積丹半島では神恵内に2例だけで、島牧では割合多い5例がありました。

石垣の積み方

次に石材の積み方を整理しつつ見ていきます。上の石材のデータと合わせてみると袋澗のほとんどが間知石布積みであることが分かります。また袋澗大国積丹半島とは別に寿都町ではまた違った積み方をする文化があることも分かります。また島牧村ではもともと堤が無いと思われる袋澗が多かったことを付け加えておきます。
市町村割合
余市町100.00%( 1/ 1箇所)
古平町 50.00 ( 1/ 2  )
積丹町 75.00 ( 3/ 4  )
神恵内村 95.45 (21/22  )
泊村100.00 (16/16  )
岩内町100.00 ( 1/ 1  )
蘭越町  0.00 ( 0/ 0  )
寿都町 44.44 ( 4/ 9  )
島牧村 25.00 ( 1/ 4  )
旧瀬棚町  0.00 ( 0/ 0  )
旧戸井町100.00 ( 3/ 3  )
20150831091458DSC_5934-2.JPG
石材の辺が水平に揃うように積んだ積み方を「布積み」と呼びます。積丹半島と旧戸井町でかなりの割合に上りました。

市町村割合
余市町 0.00%(0/ 0箇所)
古平町50.00 (1/ 2  )
積丹町 0.00 (0/ 4  )
神恵内村 4.55 (1/22  )
泊村 0.00 (0/16  )
岩内町 0.00 (0/ 1  )
蘭越町 0.00 (0/ 0  )
寿都町33.33 (3/ 9  )
島牧村50.00 (2/ 4  )
旧瀬棚町 0.00 (0/ 0  )
旧戸井町 0.00 (0/ 3  )
20150718092950DSC_3134-2.JPG
斜めに積まれた石材の間に落とし込むように上の石を積んでゆく積み方を「谷積み」と呼びます。母数の少ない古平町は別として、寿都町・島牧村のみでやや高い割合で見られました。しかし標本的な整った谷積みは無く、写真のようにどこかいびつさが漂います。また今回は袋澗本体のみの石垣にしか焦点を当てていないのですが、護岸工の石垣には布積みは少数派で、谷積みが多かったように感じます。

市町村割合
余市町100.00%(1/ 1箇所)
古平町  0.00 (0/ 2  )
積丹町 25.00 (1/ 4  )
神恵内村  0.00 (0/22  )
泊村  0.00 (0/16  )
岩内町  0.00 (0/ 1  )
蘭越町  0.00 (0/ 0  )
寿都町 55.55 (5/ 9  )
島牧村 25.00 (1/ 4  )
旧瀬棚町  0.00 (0/ 0  )
旧戸井町  0.00 (0/ 3  )
20150914112706DSC_0710-2.JPG
布積みにも谷積みにも分類できない積み方を「乱積み」と呼びます。これも寿都町だけで多く見られました。

石垣の天端

天端とは堤の上端のこと。今回は切り天端と巻き天端に分けました。切り天端はさらに3角天端や5角天端に分けられるんですけど、現実はあいまいに加工されていることが多かったのでこれ以上は細分しませんでした。
20150914135512DSC_0904-2.JPG 20150915110736DSC_0281-2.JPG
壁面から堤上へは角を以って移行し、堤上をコンクリートなどで平らとする天端を「切り天端」と呼びます。断面は矩形、台形あるいは階段状になります。他方壁面から堤上へは丸みを以って移行し、堤上も石積み(石張り)で処理する天端を「巻き天端」と呼びます。断面はかまぼこ型になります。現在堤の破壊が進み天端まで残存しているものはごく小数になるためこれは特に統計は記しませんが、『積丹半嶋袋澗調査圖』によると積丹半島の袋澗は切り天端がほとんどであることが記されています。また現存する巻き天端はすべて積丹半島外にあります。



現在の袋澗の利用状況

市町村漁港名袋澗名
余市町出足平分区
島泊分区
湯内分区
古平町古平漁港
積丹町美国漁港
幌武意漁港
入舸漁港
日司漁港S6号
野塚漁港
余別漁港
来岸分港
神岬漁港S13号
神恵内村川白漁港S26号・S27号
珊内漁港S32号
赤石漁港S45号・S46号
神恵内漁港S52号
泊村盃漁港S64号
カブト分区
泊漁港S82号
茶津漁港S94号

積丹半島にある役目を終えたこれら112箇の袋澗のうち『積丹半嶋袋澗調査圖』製作の目的である漁港化が行われたのは9箇所。又漁港化はされなかったものの船揚場として使われていたものが17箇所ありました。全体の数からするととても少なく見えますが、逆に積丹半島に所在する20の漁港のうちいくつが袋澗の再利用かという視点で見てみると、9箇所が袋澗の再利用や敷地に袋澗を含んでいるという結果でした。特に袋澗の多い泊村・神恵内村の漁港は8つのうち7つが袋澗の跡地にあるという高い割合です。この両村については『積丹半嶋袋澗調査圖』製作の目的が達成されたとみてよいでしょう。
また袋澗のうち当初の利用目的とはかなりかけ離れておりますが、海水浴やプレジャーボートの発着など海のレジャーに使われているのも数々目にしました。公設の海水浴場はS61号の盃海水浴場のみですが、S88号の写真に見るように海水浴場でないにもかかわらず海水浴客の姿が見える袋澗はかなり多かった印象です。袋澗は堤によって囲まれ大きな波が入らず、澗内に離岸流のような危険な流れが無く、深さは1.5m程度の平坦面。とプールと大差ない環境であることが海水浴客に見出されたものと思います。また周囲が波蝕棚であることも多く、礒遊びに興ずる者もおりました。この場合波蝕棚の外が急激に深くなり危険であることに注意しなければいけません。また袋澗の堤は崩壊途上であるため登ったり近づくのは危険です。間知石は数十kgもありますから万が一崩壊に巻き込まれると怪我の虞があります。レジャーで袋澗に行かれる方はご注意ください。しかし僕が最も危惧するのは保存されている袋澗が1つも無かったということ。漁港化や船揚場として利用されているものはその目的に合わせ姿を変え、そうでないものは壊れたら壊れっぱなし。北海道文化遺産データベースで保存状態は最高と評されたS54号も産業考古学会推薦産業遺産選定のS79号も崩落が進み無残な姿をさらしています。今のところ僕が最も保存状態の良いと感じたのはSu05号で、これは小規模な漁港として使われ、たまたま改修をほとんど必要とせずに袋澗の姿を保っていたに過ぎません。管理や所管をする北海道や水産庁が袋澗の価値に気づかず、あるいは漁港の価値を優先した場合、袋澗はいつ潰されてもおかしくないのです。Su05号が袋澗の形態を保ち続けたのは袋澗が漁港としての規模機能が丁度良かったというだけで、本当に偶然残っていただけなのでしょう。維持管理のことを考えると難しいのは重々承知なのですが、1つだけでも良いので袋澗として保存は出来ないものでしょうか。


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コメント

  • 弐四四@自己満足北海道
    2016-07-07T23:46+09:00(JST)

    はじめまして。とてもしっかり調査しまとめられていてグイグイ引き込まれて拝見させていただきました(ほかのページも)。
    袋澗をはじめとする、日本の発展にも寄与したニシン漁の遺構が注目されることもなく、さびれていく姿は寂しい限りです。もっとWeb上にネタがあってもいいのに~と思っています。

    Web更新は大変かと思いますが、また楽しい記事待ってます。

  • Morigen(管理人)
    2016-07-08T20:11+09:00(JST)

    どうも始めまして。
    稚拙な文と分かりにくい写真並べ立てたものに”調査”だなんて表現が大仰過ぎると思いますが少しでも楽しんでいただけたなら光栄に思います。
    さて、確かに袋澗の情報はウェブ上に少ないですね。袋澗めぐりの前にググッてサイトを色々回りましたが(もちろん自己満足北海道も拝見しました)、ニシン漁が社会に及ぼした影響に対して余りに話題にしているサイトが少なくてがっかりしました。
    そして実際にめぐってみて現物の荒れようを見てもう一度がっかりしました。
    また欠番の多さから分かるとおり、しかるべき調査がされていない袋澗の多いこと多いこと。
    今記録しなければ永遠に忘れ去られてしまうと思って必死に海岸線を延々と歩きました。
    このまま100年後にはすべてなくなってしまうんだろうなと思うと残念でなりません。
    これからもスローペースではありますが更新してゆきますゆえ気長にお待ちいただけるとありがたいです。
    それでは弐四四さんのサイトも応援しつつ失礼いたします。