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積丹1周袋澗旅(序)

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袋澗って何?

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旅行などで積丹半島の国道を走ったことのある人は、海岸に屏のような石垣の跡をいくつも見なかったでしょうか。覚えの無い方は次回注意して見て頂きたい。すると多いところでは数分に1個程度見つけることが出来るはずです。あれは袋澗といって北海道の日本海沿岸に広く分布するニシン漁業の遺産です。北海道民ならかつて北海道はニシン漁が盛んだったことはご存知でしょう。春ニシンの最盛期は産卵に来たニシンの精子で海が真っ白に染まり、ニシンを捕っても陸揚げが間に合わず海中に数日間保管しなければならないほどでした。しかし春は海の荒れる時期。そうした保管の間に海が時化てしまえば網は破れニシンは四散し、あるいはそれを恐れあらかじめニシンを捨て、せっかくの漁撈が水の泡です。そんな悲劇を防ぐため考案された施設が袋澗です。海岸の岩礁を削ってプールを作り外の波が入らぬよう屏をこしらえ、この中に袋状の網に詰めたニシンを安全に保管することができました。袋澗とはニシンの保管施設なのです。それだけでなく船を退避させたりニシンその他漁獲物の陸揚げにも使われるもはや小さな漁港といえます。現在ニシン漁獲量は最盛期の足元にも及ばず袋澗は御役御免となり、あるものは漁港に姿を変え、あるものは荒れるに任せ、積丹半島のみならず北海道日本海沿岸各地にニシン景気の忘れ形見を残しています。


袋澗の誕生

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北海道のニシン漁は昔からアイヌが行い自己の食料となし、また春の到来を告げる風物詩でもありました。アイヌの行っていた漁法は次のようなものです。細い木をたわませ半円にしてこれに網をつないだざるのようなものを海中に沈め魚群がその上に来たら網を引き上げるというものです。これをタモ網あるいはザル網といいました。この頃は後の時代からするととても少ない量しか捕れませんでした。やがて和人が蝦夷に進出すると天保年間(1830-1844年頃)には磯舟や三帆船、保津船に乗り刺網を用いてニシンを捕るようになり嘉永(1848-1854年頃)の末から安政(1854-1860年頃)の始め頃にはほとんどが刺網になっていました。網はさらに改良が進み建網や行成網、角網に発展し爆発的に漁獲量を増やしました。


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上の各網によって漁獲されたニシンは陸揚げまでの間海中で保管されることになります。ニシンは漁期の初めほど肥えたものがとれ、後になれば後になるほどやせ細ったものしか取れなくなるといわれます。なので捕れる時には出来るだけ捕って、空いた時間に陸揚げするということになるわけです。捕れたニシンは落袋と呼ばれる袋状の網に移しかえられます。落袋は片側を船の右舷にくくり付け口を閉じ、もう片側を左舷に開いてニシンを落とし込めるようにしています。落袋がいっぱいになれば左舷の開いた口を閉じそのまま船で運び出します。陸の近くまで来たら船よりはずし浮標を付けた状態で一時保管となります。しかしこの方法で保管すると時化の時には海底と網が摩擦し破れ、捕ったニシンが台無しになってしまします。これを憂えた運上屋船頭らによって海上に枠を浮かべこれにによって袋を支持する方式が考え出されましたが、この方法をもってしても時化の損害を無くすことが出来ませんでした。


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ちなみに嘉永6年(1853年頃)には枠網と呼ばれる網が開発され、後に落網にとってかわりました。しかし時化によって損害を被ることは変わりません。


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文久2年(1862年頃)、神恵内の漁業家澤口庄助が岩礁を削って人工の入り江を作り、ここに枠網より小さい袋網に詰めたニシンを保管し破損流失を防いだのです。これが初の袋澗です。袋澗は各地に伝播してゆきながら明治には木枠石詰め、大正・昭和には間知石練積みの防波堤も加わり完成されました。南は函館市戸井、北は利尻礼文まで分布し、北海道外には及んでいません。つまり袋澗は北海道特有のものなのです。


積丹半島の袋澗を扱った主な文献

積丹の袋澗についてもっと詳しく知りたい方は下記の各文献がお勧めです。1928(昭和3)年、漁港築造を目的として『積丹半嶋袋澗調査圖』がまとめられ、『積丹半島の「袋㵎」 北海道文化財研究所調査報告第2集』はこの資料を発掘し袋澗を調査。「積丹半島及び磯谷・美谷地方 離島の袋澗の現況と保存課題」と『積丹半島袋澗現況調査』はこの延長上にあります。
  1. 積丹半嶋袋澗調査圖
    1928(昭和3)年、安藝真孝・松野團治作成。袋澗の分布図、図面と経営者などのデータ。現地調査は1928(昭和3)年8月。掲載袋澗はS1-99(S18b・18c・18d・19b・24b・24c・30b・30c・32b・32c・40b・76bを除く)。
  2. 積丹半島の「袋㵎」 北海道文化財研究所調査報告第2集
    1987(昭和62)年、北海道文化財研究所編集。1985(昭和60)年に北海道文化財研究所編集で、泊発電所建設予定地に所在したS95-98の袋澗の実地調査、袋澗の概要、上記1928年調査資料の紹介した『積丹半島の「袋㵎」』が刊行されました。この内容に追加して他の袋澗現況写真と1928(昭和3)年調査図を掲載。現地調査は1984-1986(昭和59-61)年。掲載袋澗はS1-99・I1-3。なお、書名が長いのでこのブログでは『積丹半島の「袋㵎」』と略して呼んでいます。
  3. 積丹半島及び磯谷・美谷地方 離島の袋澗の現況と保存課題
    1999(平成11)年、山田大隆著。『北海道の文化』71号内に掲載。袋澗及びニシン漁業の概要、地方ごとの袋澗の現況・特徴と考察。現地調査は1992-1996(平成4-8)年。
  4. 積丹半島袋澗現況調査
    2006(平成18)年、後志鰊街道普及実行委員会編集。2005(平成17)年、特定非営利活動法人 歴史文化研究所監修で後志地方の袋澗の一覧表と現況のリストを掲載した『後志学 後志鰊街道 報告書』が刊行されました。そのリストの袋澗を追加調査し、加えて『積丹半島の「袋㵎」 北海道文化財研究所調査報告第2集』と2005(平成17)年調査時の比較写真を掲載。現地調査は積丹半島内は2005(平成17)年(S30のみ2002(平成14)年)、半島外は2004(平成16)年。掲載袋澗はS1-99(S20-23・36・95-98を除く)・I1-5・Su01-10・Sh01。

  5. 今回めぐった袋澗のリスト

    積丹半島のみに絞ろうと思ったんですが回り始めたら収集癖がうずいてしまって道央道南各地へ出向きました。但し離島の奥尻には行っておりません。こうしてみると積丹半島西部の密集ぶりがよくわかりますね。 KMLファイルをダウンロード
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    この記事の情報

    参考文献(袋澗関連)

    • 後志鰊街道普及実行委員会(編集)、『積丹半島袋澗現況調査』、後志鰊街道普及実行委員会、2006-03
    • 北海道文化財研究所(編集)、『積丹半島の「袋㵎」 北海道文化財研究所調査報告第2集』、北海道文化財研究所、1987-02-28
    • 山田大隆「積丹半島及び磯谷・美谷地方 離島の袋澗の現況と保存課題」、『北海道の文化』71号(1999-02-15)、pp.7-36

    参考文献(漁業関連)

    • 北海道水産試験場(編輯)、『水産調査報告 第十五冊 鰊漁業ノ沿革並ニ鰊減少原因』、北海道水産試験場、1926-01-20
    • 北海道庁、『産業調査報告 第捨五巻 (水産ノ部其一)』、北海道庁、1915-02-25

    参考文献(石垣関連)

    • 国土交通省 河川局 河川環境科、『河川の景観形成に資する 石積み構造物の整備に関する資料』、2006-08
    • 吉田徳次郎(著)、『土圧及擁壁設計法』、1919-06-15

    参考文献(人物関連)

    • 梶川梅太郎(編輯)、『北海道立志編第壹巻』、北海道図書出版、1903-05-19
    • 株式會社 國際通信社『皇紀二千六百年記念 自治産業發達誌』、株式會社 國際通信社、1941-06-30
    • 金子郡平、高野隆之(著)、『北海道人名辭書』、北海道人名辭書編纂事務所、1914-11-01
    • 澤石太、工藤忠平(編著)『開道五十年記念北海道』、鴻文社、1918-08-10
    • 高橋理一郎(編)『北海開發事績』、地方振興事績調査會、1921-09-25
    • 北海出版社(編)、『後志國要覧』、北海出版社、1909
    • 山崎鉱蔵(著)、『小樽區外七郡案内』、小樽區外七郡案内發行所、1909-09-28

    参考文献(海岸線の長さ)

    • 環境庁 自然保護局『第5回自然環境保全基礎調査 海辺調査 データ編』(http://www.biodic.go.jp/reports/umibe/umibedata.pdf)

    変更履歴

    • 2017-10-25
      欠番36-欠番55の追加に伴い地図データ更新
      旧:https://morigen.net/blog/image/2016/06/25/2016062507.kml
      新:https://morigen.net/blog/image/2017/10/25/2017102501.kml

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