積丹1周第2日。は古平を出て北隣の積丹町まで進みます。積丹町と一口に言っても、余別岳だの積丹岳だの1000m級の山を並べた積丹半島の北のはずれを全部1町でまかなって町域もなかなか広い。その積丹町の一体どこまで行くのかというと積丹の町役場がある美国町という地区です。古平町と積丹町の間に構える大森山から張り出す2つの岬を越えるだけ。直線距離にしてわずか5km。
安政4年(1857年頃)に場所請負人たちが余市から積丹の日司までの道を開いたことに端を発する道で当時は山道。、海岸道路が開削されこれが地図の赤色の線。海岸道路といっても登ったり下ったり忙しくほとんど山道の様相を呈してます。に改修しようやく車両が通れるようになり、余市-古平間に追従してトンネルの海岸道路に付け変わり、積丹防災によって新道のトンネルが開通しました。
なるほど丸山です。余市方向からやってきた道々、なにとなく視界に入っただけで「あ、あれ丸山だ」と思わせる見事な目印的山体を呈しています。江戸時代には烽火台(烽火=のろしの事)が組まれ積丹町と余市町の間を中継していました。山の見栄えがいいだけでなく山からの見栄えもいいんでしょうね。
竣工。昨日のワッカケトンネルと同じで幅員5.5mと狭小で半径60mの急カーブがおまけに付いてくる21世紀に相応しくないトンネルです。
丸山トンネルで丸山岬を越えれば次の厚苫岬が見えてきます。丸山岬から厚苫岬までが群来町。いかにも鰊が獲れそうな地名です。昔々はヘロカルシという地名でした。似た地名があちこちあるので覚えていますよ、アイヌ語で鰊をいつも取るところという意味です。
今の群来町は群来があった頃の盛りは見えません。往時の賑わいは地名のみぞ知ります。
厚苫岬の付け根で厚苫トンネルと旧道が分岐。旧厚苫トンネル目指してかすれた中央線をたどります。
積丹町の中心地は美国町というこの地区です。美国はアイヌ語だろうけど語義については確かなことは不詳のようです。決して中国語でアメリカということではありません。
大火に見舞われた古平と違って美国には古そうな建物が点在しています。積丹町にとどまって古建築めぐりに走るのもまた一興かも。
積丹町役場へ到着。はここまで。でもちょっと待って、まだスクロールバーが下に余白をもてあましてますね。途中でスルーした旧旧道がそんなに山がちじゃ無いので歩きに行きます。
入り口はここ。と思っていた時期が僕にもありました。後になってよくよく地図を見ると1本横の道を入ってしまっています。
でもいいんです。本来の道は上り始めは道の姿を失って住宅の下に消え、この間違った道はすぐ本来の道に合流するんです。
ずんずん標高が上がり町を見下ろせるようになります。この道余り景色の良い道では無いので見れる内景色を拝んどきます。
早速景色がなくなり右に温泉を捕らえたら丸山の鞍部を通過して群来町に入ります。
海岸道路がなくこの道路が積丹町の頚動脈だった頃は、道沿いにも家が立ち並んでいたはずです。今家という家はこれ1軒。しかも廃屋。
人気のない群来町の山中で祠(?)だけ小奇麗に保たれ、人が出入りしているかのように地面が踏み固められているのが不気味です。
群来町と厚苫の中間に山の中はかつて七軒町という地区があり文字通り7軒の家があったそうです。今となってはここに人が住んでいたというのも信じられない話です。
厚苫岬の根元で過ぎると視界が開けました。右側の半分は現道すぐ脇の法面で削られています。
足元は厚苫トンネルの坑口真上。遠くには黄金岬の沖に浮かぶ宝島。
全体的にジメジメの空気をまとっている山道の中でひと時晴れ晴れした景色に元気百倍。荒れた道もなんのその。
ちょっと寄り道
美国町内にある海岸道路でありながら、幹線ではないために順当にやれば通らないことになってしまうのは惜しくて茶津トンネルに来ました。美国市街の北、黄金岬に伸びる馬の背を抜けその向こうにある茶津地区を結ぶトンネルです。茶津地区より先は小径が続いていたことがあっただけで今は完全な袋小路。こんな機会じゃなきゃ来ないね。写真にデカデカと写るのは竣工の現茶津トンネル。現ということは旧が隣にあります。
着手、竣工とポータルにあり、同じ面に御大典記念事業ともあります。つまり昭和天皇が即位したのを記念して掘られたトンネルだということです。
スペックに関しては資料が見つからなかったんですが、たぶん有効高・幅員2mないですよ。現道の茶津トンネルは長さ105m。これに引けをとらない長さがあり、狭さをより誇張させます。荷車サイズのこのトンネルが旧道落ちするまで茶津では重機や建設資材の搬入はさぞや難儀したことでしょうね。
この記事の情報
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主要地点の地図
参考文献
- 『1:25,000地形図』
- 『1:50,000地形図』
- 『北海道新聞』後志版、小樽・後志版
- 古平町史編さん委員会(編集)、『古平町史第一巻』、古平町役場、1973年
- 『橋梁現況調書』・『橋梁、トンネル、立体横断施設、覆道等現況調書』各年版
- 小樽開発建設部、『一般国道229号 厚苫トンネルの供用開始について』(http://www.ot.hkd.mlit.go.jp/d3/hodo/070625_1.pdf)
- 古平町史編さん委員会(編集)、『古平小史』、古平町役場、1968年
- 北海道開発局小樽開発建設部(監修)、『後志の国道』、財団法人北海道開発協会、1989年
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2014-07-20
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新URL:https://morigen.net/blog/?p=6262 - 2014-07-20 誤字訂正
- 2015-11-08 冗字修正
- 2016-03-20 「前へ|次へ」を追加
2015-01-22T21:10+09:00(JST)
管理人様、こんばんは。
実は、積丹1周旧道旅1に関するもので、私が所有している画像を、管理人様にも提供できればと思い、コメントをさせていただきました。
ちなみに、その画像ですが、私の友人1人だけにはすでに提供しており、管理人様にも提供して良いかどうか確認したところ、OKという返答がきました。
なお、その画像は取得先から一般公開の許可を得ておりません。友人にもその旨を伝えております。
色々と能書きを書いて申し訳ありません。もし、管理人様にも提供可能であれば、まずはその条件などをご教授いただけると嬉しいです。色々と事情がおありのことと思いますので、管理人様に悪影響のない範囲でご教授いただければ幸いです。
ご返答不可能であれば、画像の送付は見送りますし、今回の私のコメントが不適切であれば、削除及び今後の閲覧等の拒否も甘んじてお受けします。
今回、このようなコメントをしてしまい、大変申し訳ありませんでした。
2015-01-23T07:47+09:00(JST)
こんにちは。早速ですが、その画像是非拝見したいです!
方法は下の「メッセージを送る」ボタンから送れる様にしました。添付機能あったんですね。僕自身今の今まで知りませんでした。
基本的に来るもの拒まずですからお気遣いなく添付もコメントもどうぞ。むしろ大歓迎いたします。
2015-01-23T20:23+09:00(JST)
私の身勝手な願いを御考慮いただき、本当にありがとうございました。画像ですが、送付されていないですとか、内容が異なるですとか、見づらいといった不手際がありましたら、ご遠慮なくお知らせいただけると嬉しいです。出来る限り対策を練ろうと思います。もし、管理人様がご期待いただいた内容にそぐわなければ、本当に申し訳なく思います。改めましてありがとうございました。また何かありましたら、ぜひ宜しくお願い致します。それでは失礼いたします。
2015-01-24T07:54+09:00(JST)
確かに8枚頂戴しました!
匿名希望様の解説考察付きでいずれも内容の濃~いものに興奮するとともに毎度ながら調査の手広さと精到さにただただ敬服いたします。これから週末かけてじっくり拝見したいと思いますので、ここはお礼を述べるに留めてまた改めてコメントさせていただきます。此度は貴重な資料を賜りありがとうございました。僕への提供をお許しくださった友人様にも管理人が喜んでいたと宜しくお伝え下さい。それではまた。
2015-01-26T19:21+09:00(JST)
匿名希望さん、拝見しましたよ。超拝見しました。
『後志の国道』p250の写真、これはまだ僕に廃道趣味が芽生えていなかった頃、セタカムイトンネルや豊浜トンネルの歴史の一端に始めて触れた写真でした。いや懐かしいです。道筋も町並みも変わっていった中で一軒だけ写真と変わらない番屋が今も残っているんですよね。そしてその後トンネルに入って、白黒の世界と自分の見ている風景が一本に繋がっていることに深い感慨を覚えたものでした。
今回話題に上っていませんが同じ『後志の国道』のp248にある雪の峠で悪戦苦闘するバス(初出は多分『海岸道路のあらまし』)。機会があったらご覧になってみてください。おそらく全く同じバスが頂いた広報28号の写真では海岸道路をさっそうと走り抜けているんです。ここにまた一本のつながりが出来、当時バスを利用していたであろう住民やドライバーの気持ちを直に感じることができたような気がしました。この写真はどうやって撮ったのかも分からない場所にカメラを据えその場でバスをわざわざ待ち構える気合の入れよう、そして構図も素晴らしく広報に1度掲載するだけには惜しい1枚ですね。資料価値云々は関係なく気に入ったので墓の中まで持っていかせてもらいます。
大川橋のご報告も読ませてもらいました。再建当時国道から退いていたにもかかわらず渡橋式に出席した面々を見ると橋への期待の高さが窺えますね。
最後に広報第70号の写真では奇跡的にほぼ同じアングルの写真を2013年に撮っていたので張っておきます。
広報に掲載された時点であそこまで削られていたらやっぱりもう跡形も無しですね。周りの崖の輪郭も大分変わっちゃってますし。それでも鼻垂岩のトンネルを写したただ一つの写真かもしれませんね。
2015-01-26T20:43+09:00(JST)
管理人様、こんばんは。お喜びいただきまして何よりです。
「後志の国道」p250の写真にある番屋のうち、一軒だけが今も現存しているのはすごいですね。あれから約60年の歳月を経ても現存しているとは驚きました。
次に、「後志の国道」p248にある雪の峠で悪戦苦闘するバスについても、機会がありましたら是非確認したいと思います。そして、広報28号と照らし合わせたいと思います(海岸道路のあらましも)。広報28号のあの写真は、本当に圧巻ですね。
私が提供させていただいた資料を、そこまでお気に入りいただきましたとは・・・・・・・私も感激です!本当に提供させていただいて良かったです!
大川橋についても、ご拝見いただきましてありがとうございます。渡橋式の様子から、当時の住民の方々の期待が現れていますね。
広報70号の写真と、2013年撮影のお写真を比べてみました。本当に、当時と今では崖の輪郭も大分変わっていますね。広報の写真は、確かに鼻垂岩のトンネルを写した唯一の貴重なものであると思います。
お喜びいただいた上に、コメントまでいただけるとは嬉しいです。また、何かありましたら、ぜひ提供させていただけると嬉しいです。
それでは失礼いたします。ありがとうございました。
2015-04-21T00:16+09:00(JST)
匿名希望様、もうご覧になってはいないと分かりながら頂いた「後志の国道」p250の写真の今に出会いに行ってきました。
例の写真と同アングルの写真です。時代の荒波にもまれ自然のみが当時のままと思いきや一つだけ変わらぬ人工物。それが……
橋のたもとに建つ沢田家番屋。今もお住まいの方が居られるのかかなり手入れが行き届いています。僕が豊浜トンネルに初めて行った2009年当時はすぐ近くにもう1軒、更に大きい番屋が建っておりましたがこれはいつの間にやら解体されてしまいました。もっと見ておけばよかったと悔やまれます。
しかしこんな不便な場所に番屋が複数建つほどの活況ぶり、船の1つもない今では想像できない変わり様です。
今回はたいした内容でないので御返信は不要です。