熊牛トンネル

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かつて広大な大地に幾多の鉄道路線を抱えていた北海道。黎明期には不尽の炭鉱から石炭を運び出す手段として重宝され、ある程度幹線が整うと毛細血管のごとく開拓のための小規模な鉄道が敷かれてゆきました。十勝平野の北部を横断する「北海道拓殖鉄道」もその一つ。新得町から鹿追町を経て上士幌町まで、人家の散在する「ザ・北海道」な景色の中をトコトコ走る私鉄線です。


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平野を横断する鉄道ではありますが、その中に1箇所、平野を切り裂き南北に細長く延びる「美蔓台地」という難所があり、路線中ただ1つとなるトンネルが穿たれていました。台地の麓の屈足駅から東に出ると台地の縁をトラバースしながら標高を上げ、最後の詰めを熊牛トンネルで登りきり、台地上の新幌内駅へ達するというものです。行ってきたのはこの熊牛トンネル。(北海道 トンネルwiki


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美蔓台地へ登る道道の旧道にあたる砂利道に入り車を降ります。写真右方向が台地の麓になる屈足方。現在その方面は水力発電所ができ線路の跡はなくなってしまいました。左へ行くと築堤があってトンネル方向へ続いているのですが、歩き始める前に目の前にあるアーチをよく見ておきましょう。


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築堤のあっちからこっちへ、こっちからあっちへ行き来するための橋で、今では大きな役割も果たしていませんがかつてはここを道道が通っていました。なのでここは道道の旧旧道になるわけです。『道路現況調書』によれば無名トンネルという名前のトンネルであったらしく、また『道路トンネル大鑑』ではK跨道橋としています。


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延長16mの無名トンネルを通り抜けるとそこにはガリーが横断し、それの上にカーブした堤を盛って旧旧道は旧道へ合流します。


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振り返って無名トンネルの翼壁。転石利用の趣がいいですね。


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無名トンネルを見終わってようやく熊牛トンネルへ向けて歩き始めます。が、いきなり線路上に何か施設があります。なにやら利水のための施設で、沈砂池という物だそうですが僕は詳しくわからないので知りたい方はウィキペディアとか見てください。


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右側には牧草畑、左側には林。両者の境界にある線路跡には一部有刺鉄線がめぐらしてありました。動物の出入りを防ぐ物でしょうか。


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また築堤も1箇所崩落しておりました。有刺鉄線は崩落後に設置されたものらしく、崩落を回避するため複雑なラインで張り巡らされているので少し難儀しました。雪が解けて緑が繁茂する時期が来たら相当に苦労するでしょうなあ。


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線路跡は徐々に標高を上げていき、右手には十勝平野と日高山脈の雄大な光景が広がります。往時にこんな木なんて生えてはなかっただろうからもっと素晴らしい景色だったのでしょうねえ。この北海道拓殖鉄道は大きな標高差を越える箇所はあまりないので路線随一の車窓だったことでしょう。


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線路跡が乗っかっているのは築堤というのはわかりますが、徐々に美蔓台地の段丘崖が左から迫り来ます。歩いてると意識しないことですが多分20‰くらいある坂を頑張って登っているのに少しずつ築堤の高さは低くなってゆきます。


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築堤で稼いできた標高も周囲と等しくなり、一時的な平場が現れます。ここが熊牛駅跡。台地の麓の屈足駅と台地の上の新幌内駅の坂の途中に唯一あった駅です。


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一見何一つ痕跡が無くなっていたと思われた熊牛駅跡ですがレンガ造りの煙突だけが林間に残されていました。熊牛駅には熊牛トンネルの保守に当たる作業員が居る詰め所があったそうで、この煙突がその痕跡なのでしょう。


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ここからは谷間に入り周囲の景色は山だけになります。始めは広い谷でしたが急激にその幅は狭まりトンネルの登場が近いことを予想させてきます。


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左側には土留めのコンクリ擁壁。そして奥には……


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熊牛トンネル。坑口が崩れているし、上の表土はすりばち状にへこんでいるから中も崩落間違いなし。


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坑口はコンクリ製の無装飾な面壁型。人為的に塞いだのかな?と思えるほど土砂がてんこ盛りです。現役時には巨大なつららができるので、坑口に木の扉をつけ中を締め切り、そこに不要な枕木を燃やした煙を充満させてつららを防いだそう。熊牛駅の詰め所の作業員はこの扉を開閉したりつららを除去する要員だったそう。


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坑内を覗き見ます。ライト無しなので光量が全然足りてませんが奥に土砂が壁を作って閉塞しているようです。美蔓台地は堆積層による柔らかい地山なので崩れるのは自然なことだし建設時も掘りにくかったでしょう。そういや地図によるとトンネルの真上に人家があるんだけど崩落による影響って無いんでしょうか?


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坑口から今まで歩いてきた線路跡を振り返りました。次は車に戻って熊牛トンネルの反対側の坑口を目指してみます。ワープ!


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シュタッ!ということで美蔓台地の上の廃線にやってきました。ずうっと後ろには新幌内駅跡があり、そこから切土を徐々に深くしどんどん標高を下げて、途中には十勝鉄道が頭上を通れるほどの深さにまでもぐります。その立体交差からここまで400m西に進んだのでもっともっと深い切土があったはずなのに、現地に着いてみればご覧の通り。埋め戻されただけでなく、なんなら盛土になっています。明らかに残念パターン。


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結果は想像つきましたがとりあえず盛土へは上がってみました。本来は深い切土の谷の中だった場所です。


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もう少し進めば……きっとなにか痕跡が残っているかも……なんて淡い期待をよせながら切土だった盛土を歩きましたが、そんじょそこらの防風林となんにも変わらない環境が細長く続き、最後は道路にぶつかって終わりました。本当に本当に本当になにもなかった。好きで来たのに損した気分です。1984(昭和59)年発行の本には

東側の切り取りは雨の水が流れ込んで湿地になりトンネル内にも水が入るので近くフタをしてしまうそうだ。
とありますから塞がれてかなりの年月が経っているとみられます。トンネルを閉塞させるだけでなく切土を埋める必要があったのかというと、答えはイエスで、建設時には切土が崩壊し開業が遅れ、その後も何度か崩壊しているというので安全のために埋めるのは致し方ない。


北海道拓殖鉄道は名前の通り周辺の開拓や入植を促し、新得から上士幌、果ては足寄まで結ぶ計画があり十勝平野北部の幹線鉄道となるべくして建設されました。西端の新得から開業を始め最終的に上士幌まではレールを繋ぎましたが、不況に凶作にその他の事情も重なり足寄延伸は測量までしていたのに断念。また思っていたほど周辺地域の人口も増えず業績は常に赤字。補助金なんかでわずかな黒字を出した年もありましたがその程度で積年のマイナスは帳消しにはできず施設・設備はどんどん老朽化。東端の上士幌から段階的に廃止を始め、最後には陸運局から「熊牛トンネル修繕しなさい!」と怒られましたが、そんな金はなく(昭和43)年ついに全廃となりました。


この記事の情報

主要地点の地図

参考文献

  • 加田芳英(著)、『十勝の國私鉄覚え書』、1984年
  • 鹿追町郷土史研究会(編集)、『文明開化の花形 鉄道の歴史を探る』、2002年

変更履歴

  • 2024-03-10 衍字修正

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