嘉永7(1854)年、 日米和親条約で200年続いた鎖国に終止符を打った日本。アメリカに続けとばかりに翌年までに5箇国が相次いで日本と条約を結び文明開化へのカウントダウンがついに始まりました。ロシアについても始めの5箇国のうちに含まれ、安政元(1855)年に日露和親条約、安政5(1858)年日露修好通商条約を結び国交を樹立しました。条約により北方地域の取り扱いや下田・長崎・函館の開港、そして日本国内に領事を置くことを定めていました。領事館を置いたのは対外貿易の大先輩長崎?条約にある下田でしょうか?いや首都に近い横浜?全部外れ。これがまさか日本の辺境函館だったんです。(当時の表記は「箱館」。正式に「函館」と表記されるのは明治になってから。今日は面倒くさいから全部「函館」って書いてくよ)江戸+函館みたいな2箇所体制じゃないですよ、マジで函館1本。なぜこんなことしたのか確かな理由は言えないのですが、19世紀極東地域に食指が動いていたロシアにとっては、条約で国境未定としていたサハリンを手に入れるための交渉拠点としてとか、通年不凍の軍港置くための準備とか、何か極東進出に関する理由はあったはずです。修好通商条約を結んだ年の9月30日(ユ暦10月24日)、日本初めてのロシア領事ゴシケーヴィチ (И.А.Гошкевич) ら一行が函館に入り活動を始めます。当時のメンバーは領事ゴシケヴィチ一家・書記オヴァンデル (В.Д.Овандер) ・医師アルブレヒト (М.П.Альбрехт) 一家・司祭フィラレート (Филарет) ・海軍航海技師ナジーモフ (П.Н.Назимов) という大人数でした。日本の中央から遠く離れているのにこの人数だけでかなりの気合を感じます。彼らの仕事は通商、日本情勢の調査、そして日本唯一のロシア外交の窓口でしたが、病院を建て教会を建てロシア文化を伝え……とその活動は外交だけに留まらず、美しい和洋折衷の函館の原型を作ったとも思えるほどです。
来函当時彼らは
幸坂をほとんど登りきった傾斜地、函館港をまるっと見渡す好展望な位置にあるかわいらしいドーマーを備えた寄棟屋根がそれです。運動のご褒美に景色を見ながらつめたい飲み物をがぶ飲みしたいですね。映画『星に願いを。』では主人公の行きつけの喫茶としてここが撮影に使われ主人公もトマトジュースを一気飲みしていました。(撮影に使われたのは入り口付近だけで喫茶内は他所で撮影)ご近所にはかつて領事らがお世話になった実行寺と高龍寺が位置しています。
見よこの熱狂ぶり。オリンピックやワールドカップをはるかに凌ぐ1日/17年という開催期間を待ちわびた領事館ウォッチャーで長蛇の列が伸びました。敷地内もすでに人で溢れてますよ。スーパーの安売りも無く有名人に逢えるでもない町外れの坂の上に集まった彼らの目的はただ一つ。「歴史的建築である旧ロシア領事館を見学して市の歴史とロシアとの関係について理解を深めたい。」週末の予定はジャスコの皆さん聞きましたか?函館市民はこんなにも文化的なんですよ。
門からのぞくファサード。17年の時を経て木が多くを隠しています。
レンガと漆喰が織りなすメリハリのある赤と白。縦長な窓を囲む太く重厚な額縁。異国情緒あるのに2本柱に支えられる小さなポルチコはまさかの唐破風でここは日本だと再認識。
北東面では一面ガラス張りの部屋が目を引きます。テンポ良く並ぶアーチと真っ白で細い窓枠が軽快さを感じさせます。
残念なことにこの歪み傷み。よくもまあ一般公開までこぎつけたもんです。建物の劣化が激しすぎて一般公開の範囲は限定的で、人数もちょっとずつしか一度に入れさせてもらえないという状態です。この目の前に修繕費を募る募金箱置いといたらかなり効果ありそうな気がしますがどこにも見当たりません。
南角の出入り口の戸は朽ちて人が出入りできそうなほどの大穴が開いていました。募金させろよ。
入ってまず目に入るのは正面奥にある階段。シックな色の木造でレッドカーペット敷。親柱・登り高欄とも彫り物に抜かりなし。玄関から見ると頭上のアーチ、側面の柱によって階段周りの様子が切り取られ、一葉の絵の如く目に写ります。
階段の踊り場から玄関ホールを見下ろします。余り広くないですね。
踊り場より上の2階は非公開。人がずかずか入るとヤバいぐらいの劣化具合なんでしょうか。
外から見たの窓は小さいものまで漏れなくぺディメント付きで、屋内に入った今度は漏れなく扉にエンタブラチュアが付いてます。
ホール南西の部屋は入れませんが開いた扉から中を見れました。放送室っぽい設備が置かれている事務室です。領事館としての役割を終えてからかなり手が加わっているのか西洋建築の雰囲気はありません。カセットとレコードが時代の流れを感じさせます。
玄関のホールを見終わって一団が通されたのはサンルーム。外から見えてたガラス張りの部屋です。こちら面は開けた北東に面し、天井の高さや明るさも助けて開放感があります。外から見たとおり右の方は朽ちてガラスもはまってないので木の板で応急処置しているという痛々しい状態です。
窓からは船見町という住所にたがわず函館港を一望し函館どつくが目の前です。目の前の木は今日のために切って下さったそうです。が、目の前の墓地が見えないギリギリまで切り下げてほしかったですね。今のままでは宝の持ち腐れ。
サンルームの北西の部屋。ここも入れませんので扉から見るだけ。領事館時代のものは戸と窓枠ぐらいしか無いんじゃないかと思われるほど味も素っ気もありません。入れないというのは特に見るべきものが無いからなのか。
最後は建物中央にある食堂。もう最後です。1度に入館できる人数が決まっているため5分から長くて10分程度しか中には滞在できません。17年ぶりのチャンスは時間との戦いなんです。
食堂の奥にある美麗な小窓。窓の大きさに比べ過剰なほど飾り立てられています。
小窓の向こうは厨房みたいです。さすがに衛生が絡むここは作り変えられまくってますね。
食堂のもう一つの扉から見える非公開エリアも当初の姿は留めていないようです。敷地の奥の方に位置し後に増築された付属建物は今回すべて非公開。
以上見学会でした。この歴史ある建物も道南青年の家の移転後17年空き家となり、今後の利用方法も決まっていません。誰も披露されず木は朽ち果て維持費ばかりかかっている今のままでは解体も免れないかもしれません。そういうことで今日の一般公開が催され、理解を求めようとしているのだと思います。空き家になった歴史的建造物では次の主が決まらず最後には解体されるということは実はよくあることです。旧ロシア領事館もそんな残念な例に埋もれさせず活用の機会を与えてあげて欲しいです。旧ロシア領事館に興味持ってる人がこれだけたくさんいるんだからきっとだよ。
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主要地点の地図
- 函館旧ロシア領事館
- 倉田有佳、『函館の「旧ロシア領事館」案内』(http://hakodate-russia.com/main/letter/33-03.html)
- 佐藤守男「ロシア領事館の函館開設をその活動 -一八五九年~一八六二年の『海事集録』を中心に-」、『北大法学論集』第46巻第3号(1995年)、pp.253-296
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2014-12-13
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