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旧留萌佐賀家漁場

古来アイヌのコタン(村)は川筋や海岸湖岸に多いということが各文献や遺跡の発掘からわかります。水の周りにいれば生活水飲用水の入手はもとより船を浮かべれば交通になるし海では塩も手に入ります。そして山を歩き回ってシカを追いかけなくても簡単な道具があれば沢山食べ物が手に入ります。そうですお魚です。春にはニシン、秋にはサケがアイヌの腹を満たし、時には加工物で交易し日本やロシアの物品を手にしていました。漁業は和人が蝦夷地へ進出する目的の一つになり、やがて家が建ち、道が伸び、町が興ることになります。今日見てきたのはそんな漁業目的で青森から留萌に進出した佐賀家のお宅。普段は事前に連絡しないと見せてもらえない佐賀家がお盆の期間だけ見られるということで見てきました。


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佐賀家が留萌に入ったのは弘化元(1844)年。天保11(1840)年に浜益以北でのニシン漁が解禁され、記録上一番に留萌入りしたのが下北半島の下風呂を中心に漁業海運業などを営んでいた佐賀家の8代目佐賀平之丞とされます。現在の留萌市周辺に当たるルヽモッペ場所には安政5(1858頃)年には16軒が進出していましたが、佐賀家は当時すでにずば抜けて大きな漁業者に成長していました。今日残る番屋が出来た時期は史料より万延元(1860)年頃。明治の前が慶応、その前が元治、文久、そして万延。今から150年以上昔の江戸時代で、教科書で習った「桜田門外の変」が起こった頃です。いわゆるニシン御殿の多くは明治の建築であり豪華さでは勝っても古さでは佐賀家番屋には及びません。北海道の民家で現存最古とされ19世紀始めに建てられた上ノ国町の笹浪家住宅に次いで古く、北海道特有の土壌で生まれたニシン番屋を直接観られる貴重な物件です。


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佐賀家番屋は今日まで150年の間に改造に改造を重ね僕のような素人にはどこら辺が元の状態なのか、どこら辺が手が加わっているのか分かりません。上の画像で4本の太い柱が現在まで変わらず残っていますね。当初はこの柱に囲まれた空間を通り玄関から背面まで伸びる土間があり左側がヤン衆の寝台、右側に親方らの生活スペースとなる座敷などが配されていました。大まかな構成は現在も変わりなく左は寝台右は座敷があります。座敷が増えたり土間が移動したり建物を一部切り詰めたり屋根の勾配を変えたりといった改造が加わり、1952(昭和27)年に座敷の増築を行って以降目立った改変はないそうです。番屋を調査し当初の姿を推定した『国指定史跡佐賀家ニシン番屋』という報告書では現状建物に残る痕跡や古写真・古資料から次々と過去の様子を解き明かしていく様が実に小気味良く、推理小説のクライマックスのような爽快感に浸れるのでオススメしときます。専門家の観察眼も鋭いっす。


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佐賀家番屋の正面と背面。贅沢だったりキレイだったり決して着飾ることはなく、いぶし銀の雰囲気だけで他の家とは違う風格をかもし出しています。


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現在の玄関。当初はこの左側、2段になった窓のあたりが玄関でした。「佐賀」姓を受け継いだ表札を見ると主がまだお住まいのようです。花田家や笹浪家といった多くの有名ニシン番屋がたどった公共物化の流れには今だ乗らず、個人宅の孤高な地位に踏みとどまっています。どうでもいいけど電気メーターの位置がずうずうしい。


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番屋の中。意味ありげにパノラマで撮りました。右のまぶしい部分が玄関。その玄関から左まで土間が延び、竈なんかが見えます。正面には板の間、壁の向こうには座敷があります。今回座敷の方は非公開。写真に写っていない背後には寝台。


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この色艶、凸凹、苔むし具合。見た目にも100年は経ってると思わせるマジモノの三和士。


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竈はコンクリート製で、レンガの煙突で排煙するものが2口。これと独立してレンガ製の煙突なしのものが1口。割れたり一部が崩れたりして今は流石に使っていないようです。


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板の間には囲炉裏があったようです。頭上には自在鍵もぶら下がっています。


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囲炉裏のあるご家庭の特徴。煙に燻され真っ黒の小屋組。壁も古そうな土壁の部分では同じ。悪の組織の基地がやたら黒い配色なのは彼らが囲炉裏を囲んだエコで温かい生活を送っているためです。


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寝台のある部屋。漁撈の多くは出稼ぎの漁夫によって行われ、漁期中彼らの寝室となるのがここ。コの字型に土間を囲む2段の寝台があります。今風に言ったらロフト。もし建物を再利用するならこれを生かしてライダーハウスやユースホステルという手もあります。


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寝台に置かれていたこの墨書の板は番付というもので、その年に漁場で働く人の名を役職別に記したものです。ニシン番屋に行くとおそらくどこでも掲げてある必需品です。佐賀家でのニシン漁は1957(昭和32)年が最後と聞いてましたが、この番付ではなぜか1958(昭和33)年です。このことについて詳しく話聞いてくりゃ良かった。書き連ねられた名前を見てみると見慣れた苗字に並んで「二本柳」「岩角」「四ツ谷」「駄賃場」という下北半島らしき苗字があることから、晩年まで佐賀家自出の地と深い関係を結んでいたと想像できます。


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佐賀家の漁場には番屋以外にも建物が残っており今回の公開は蔵2棟も公開されています。これは番屋の南西に建つトタン蔵。青一色のトタン壁、年季の入ってそうな瓦屋根、重厚そうな佇まい。佐賀家のことは知らずとも国道や列車から見た覚えのある方もいるんじゃないですか?


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やたら主張の強い屋号の塗装です。佐賀家が留萌に進出した当時、蝦夷で漁業を営むためには松前藩に人別(戸籍)が必要だったので松前の田中藤左衛門から名義借りし当家のこの屋号を使い始めたといいます。ちなみに来道前の屋号は丸に井桁。


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蔵の中にはニシン漁にかかわるあらゆる道具があるのではないかと思います。漁の準備から陸揚げ後の加工まですべての流れをこの倉庫内だけで説明できるだけの道具がまとまって保存されているのはやはり貴重です。そういうわけでこれら道具は重要有形民俗文化財や近代化産業遺産に認定されています。観光客は見なくても分かる人には分かってもらえる価値があるんですね。え?僕?僕はまだまだ分からない派ですよ。


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ホームセンターより品揃えがいいじいちゃん家の納屋。より品揃えのいい佐賀家の蔵。


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分からないものがあったらちょっと周りを見回してみればちゃんと書いてあります。こんな丁寧なご解説が大量にある品のたぶん全部に付けられています。やがてやって来るであろう群来を知る世代がゼロの時代に備えて文化を伝承せんと努めていらっしゃるのです。


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番屋南に建つ建物に移りましょう。船を入れておく船蔵。佐賀家漁場で一番新しい昭和初期の建築かもしれないということです。


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たまーに海沿いのお宅で見かけるこの飛び出た物体。僕は今日この正体を知りました。


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そう、これは船倉に入りきらずに突き出た船の舳先だったのです。


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船倉の中には足の置き場も無いほど船や大きな漁具らしきものや丸太やらが詰め込まれていました。枠船磯船おこし船、全部で10艘ぐらいあったかな?繊維強化プラスチック製が台頭する現代の漁船界から見ると珍しい木造船がすべてです。


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番屋周辺には漁網やニシン粕を干す広い干場があり、真ん中にこんな標石が突き出ていました。建網の位置を決めるための標石でしょうか。定置網漁法の建網は1統ごとに決まった設置場所があり、それぞれ漁業権が設定されていました。1統ごとの区別は、佐賀家番屋を見るに当たり留萌市史を読んでいたら漁業権の貸し借りのくだりで……明治三十七年鰊定第二号行成網を……同じく鰊定第二百六十八号角網を……鰊定第十二号角網を……なんて表現が出てきてたので「鰊定366」も多分そう。市史あんま読み込んでないけどきっとそう。


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そのほかの施設は今日も相変わらず非公開。四番蔵と五番蔵に至っては今や他人の手に渡ってしまっているので永遠に非公開だと思う。


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佐賀家にこれだけ漁場の建物+漁具がまとまってそのまま残っているのが識者に知られるようになったのは1996(平成8)年に留萌市教育委員会による調査が始まってからだそうです。そして存在が世間に知れ渡るやいなや、1997(平成9)年にはいきなり国指定史跡の地位へと登りつめています。みなさん冷蔵庫に食べ物を入れたまま忘れて気付いた時には賞味期限が1年前なんて経験ないでしょうか。佐賀家のニシン漁が最後に行われたのは1957(昭和32)年だそう。翌年の漁に備えて道具は一式倉庫へ仕舞ったんでしょうが、そのまま漁期はやって来ず気が付けば賞味期限切れすぎて冷蔵庫ごと文化財です。僕も冷蔵庫放置してみようかな。


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主要地点の地図

参考文献

  • 宮沢智士(監修)、福士廣志・御船達雄(執筆)、『国指定史跡佐賀家ニシン番屋』、佐賀家ニシン番屋調査会、2000年
  • 留萌市(編さん)、『新留萌市史』、留萌市、2003年

変更履歴

  • 2015-01-01
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コメント

  • 二本柳正志70歳
    2021-04-19T15:47+09:00(JST)

    留萌市出身の二本柳正志です。父の母方はカネロク佐藤で佐賀の近くに番屋があり子供の頃中を通り父と裏山の畑へ行った。祖父は宮大工で佐賀番屋の奥の蔵や留萌近辺でたくさんの家、神社を建てたらしい。佐賀番屋が北海道です最古とは驚きです。

  • Morigen(管理人)
    2021-04-20T16:56+09:00(JST)

    二本柳さんはじめまして今日は。
    貴重な体験談ありがとうございます。
    もしかして御爺様のお名前は「二本柳長助」様ではないでしょうか?
    トタン蔵には下の写真の棟札があり「もしや?」と思いまして。
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  • 匿名
    2021-09-08T20:31+09:00(JST)

    こんにちは!自分でコメントして忘れていました。私は留萌市元町生まれ、70歳です父は二本柳源吉大正5年生まれ、祖父は二本柳與之吉、祖母は旧姓佐藤、佐賀番屋の近くにカネ六佐藤と言う番屋が有り父は裏山の畑を借り、私の家族は元町、川北から通いました。カネ六の番屋の中を通り抜けて。留萌市の教育委員会の福士さんから二本柳やカネ六佐藤について色々教えて頂き感謝です。又佐賀番屋がかなり古い建物とは知りませんでした。

  • 二本柳正志
    2021-09-08T23:08+09:00(JST)

    メールの名前など忘れました。二本柳のル-ツ面白い。全国に3千人弱青森千人、北海道1400人、ほとんど東京以北とか。今相撲の幕下に二本柳居るが東京出身。