札幌と旭川の真中辺りにある砂川という街。北海道第一の大河石狩川に沿って南北に広がる石狩平野にあるこの街から東の山中には石狩炭田(空知炭田)の各炭鉱があり、石狩川支流の小河川沿いに細長くいびつな炭鉱街が築かれていました。歌志内というその街は市制を敷くほどの人口を擁し、北炭・住友といった大手も採掘を行っていました。今日歩いてきた歌志内線は砂川駅から炭鉱街を縫って歌志内駅まで14.5kmを結び旅客・貨物輸送と運炭を行っていた盲腸路線です。北炭が自社の炭鉱から石炭を輸送するために引いた空知線の一部で、開業は1891(明治24)年7月5日。北海道初の鉄道手宮線が開通したのは1880(明治13)年。同年幌内鉄道が通じ、次に北海道に出来た路線がこの空知線です。空知線のうち後に歌志内線と称した区間は1901(明治34)年9月空知線歌志内支線に路線名変更、1906(明治39)年10月1日国有化、1909(明治42)年10月12日歌志内線に路線名変更となります。現在の歌志内市は相次ぐ炭鉱の閉山で人口が3,800人ほどまで減り、市を支えた炭鉱産業は空知新炭鉱だけが露天掘りを続けるのみになりました。歌志内線の必要性も下がり特定地方交通線となったため1988(昭和63)年に廃線となりました。
JR砂川駅の東口。表か裏かといえば裏に当たります。なんでまた裏に居るのかといえば、歌志内線は現在の1番線ホームから出ており、これは裏側に近い側なのです。砂川駅東口付近は2000年代に再開発が行われ面影を忍ぶことはできません。駅前広場にはレールが残っていますがこれは砂川駅から上砂川駅までを結んでいた上砂川支線のもので歌志内線の遺構ではありません。
自由通路から見た砂川駅構内。ここに歌志内線が発着し、北方向に向かっていました。砂川駅にもう一つ乗り入れていた上砂川支線はもっと東の現存しないホームから逆方向に出でて、歌志内線の1kmほど南を並行し上砂川町に向かいました。
砂川駅を出る2本の線路は複線の函館本線で、横に並んだ歌志内線の線路はペンケスナ川を渡る橋梁の前で途切れました。単径間桁はまだ残っていますがその上にはレールは乗っていません。歌志内線が開通した1891(明治24)年には函館本線はまだ無く、この歌志内線こそが本流だったのですが、主役の座はすぐ陥落し先に姿を消したのは歌志内線の方になってしまいました。
砂川駅を出て函館本線と共に北へ1kmを過ぎると、いよいよ歌志内線が枝分かれして東進します。
ここから線路跡の築堤に上がってみましたがご覧の通り27年分の草木ばかりで何もありゃしません。レールも枕木も標識もなく、眼を凝らすとたまにバラストっぽい砕石がちらほら見つかる程度です。
ペンケウタシナイ川を渡っていた箇所。と言うと語弊があって川は廃止後すぐに改修されて出来た川で、もちろんこうなる前は橋なんてありません。改修以前のペンケウタシナイ川はさっき渡ったのペンケスナ川に繋がっておりました。流量に対しペンケスナ川の幅・深さははまりに狭かったので改修も分かる話です。この改修ではペンケウタシナイ川下流域の蛇行をならし、増水時には隣のパンケウタシナイ川からも地下水路を通じて水を受け入れることが出来るようです。
北光一の沢を渡っていたはずの橋は残っていませんでした。沢を渡り北海幹線用水路の焼山水路橋をくぐりまだまだ直進。
道路脇の築堤をたどっているとこんなところに勾配標が残されていました。腕が1本もげ数字はもう読み取れません。でも歌志内線歩く方はチェックしておいて損は無いでしょう。なぜならこれ以後大した鉄道遺構が全く無いんです。
少しの間、道路と歌志内線は併走してましたが、河川のみならず道路も改修されていて、ここでは完全に線路の跡がなくなりました。
交差点付近にまた出た築堤。これも僅か50mほどで消え、もう2度と素材の味を楽しめる場所はなくなります。
焼山駅跡。歌志内線の途中駅で唯一砂川市域。周辺では蒸気機関車の火の粉でしばしば山火事が起こっていたことから焼山という地名が出来たそうで、大正時代の地図にはもう焼山の名が載っておりました。歌志内線が開業した1891(明治24)年というのは北海道初の鉄道である幌内線が開業してから13年後のことで、室蘭本線で積出港室蘭と繋がる前年であります。そのような歴史の古さが、鉄道が地名の元になっているということからも伺えます。
焼山駅からは歌志内線の跡地が歌志内サイクリングロードとして整備されています。サイクリングロードは終点歌志内駅まで続きますので、よってここから先は歌志内線よりサイクリングロードの紹介みたいになっちゃいます。
樋口川を渡る橋は1996(平成8)年に架けられた銘板が付いています。ということは架け替えられてしまったのでしょうね。こんな感じでこの先いくつかある橋はチェックした分は架け替えられているようです。
右手にループ橋が見えてきました。なぜここにこんな立派な道が必要だったのか地図だけ見ても全く見えてこない謎の橋。つづら折でいいのにループ橋だったり高欄にレリーフをはめ込んだりかなり金がかかっている割に冬季通行止めだし銘板すら入っていないという扱いの雑さ。まあお金持ちはちがうねえ。
無用の長物に思えるループ橋から見た歌志内線跡、砂川方向。そうだこの橋は廃線を俯瞰するのに役立ってるじゃないですか。
歌志内方向。この辺り左右の山の間隔が狭まり山がちな印象を受けます。
ペンケウタシナイ川に注ぐサカイ沢川を境界にして砂川市から歌志内市に入ります。「砂川」という地名も「歌志内」とう地名もアイヌ語の「オタシナイ(砂浜がある川)」に由来し、音訳するか意訳するかの違いしかありません。更に言うと歌志内は砂川(当時は奈江村)から分村して成立した歴史があるので、名前だけでなく公共団体そのものもまた同一だったことがあるというのです。
市境の辺りは無駄にサイクリングロードがカクカクしています。空中写真をじっくり見てみるとどうやら側を流れるペンケウタシナイ川に削られて線路跡が流されてしまったとみえます。
歌志内市に入って間もなく市街地と呼べる地帯に入って行きます。もはや「歌志内村」だと言われるほど過疎になっている歌志内といえども、平地の少ない地形ゆえ、貴重な土地として線路跡が様々転用されています。
歌志内市に入って最初の駅、文珠。撮ってきた写真が少し場所がずれてたので唐突にストリートビューです。便利な世の中になりましたね。そんな間違うくらいですから当然鉄道だった歴史を示すものは何も無く。
文珠駅を過ぎてからというもの歌志内線跡は道路になったり家になったりし、そうすると今歩いている道はあっち曲がったりこっち曲がったりします。線路跡に作られているはずのサイクリングロードは最も迷いやすいであろうこんな所に限って案内が無く、フラ~っと自転車で走りに来た人には不親切ですね。線路の跡だから起伏も無いという利点すらも切土盛土で台無しになってました。何kmか後ではサイクリングロードなのに縁石を越えなきゃ行けないところもあったし。全国津々浦々のサイクリングロード行ったわけじゃない僕が言うのもなんだけど、サイクリングロードってとりあえず作ったっていう感じのするのが多くて実際に走ってみると不備だらけって多いですよね。某所では手入れされずに完全廃道のところもあるし。だからここはまだ優しいね。
サイクリングロードの愚痴もそこそこに西歌駅に着きました。ここは公園化されていました。
西歌駅を出た後は桜並木が延々続きます。あと1箇月もすれば咲き狂う桜のトンネルが潜れたかもしれませんね。
桜並木に入ったらちょっと左の斜面に注意しながら走っていると……ありましたありました。この辺りは住友歌志内砿の跡地なので密閉された坑口が残っています。
サイクリングロードの傍らに道の駅があり、貸し自転車もやっています。車でここへ来て自転車で市内のサイクリングという楽しみ方が出来るわけです。そうまでするほど歌志内には何もないけどね。
道の駅を過ぎてすぐの荒地にこんな廃車がありました。ライトエルフとライトバスというマニアックな組み合わせの廃車。どちらもいすゞのエルフから派生した車種です。持ち主どれだけエルフ好きだったんだい。
さて焼山駅手前の勾配標以来となる鉄道らしいものが出てきました。跨線橋です。1962(昭和37)年から通学用の歩行者自転車専用道路が本町方面に建設されたそうで、この辺がその一端かと思います。この道路は後に自転車も通れるように作り変えられこのサイクリングロードの前身となっています。
神威駅跡。跡形もありません。駅名は「かむい」と読みたくても正しい読みは「かもい」。国鉄職員も間違ったのか『北海道駅名の起源』には「かむい」と記されている版もありました。あるいは本当にそう読んでいたのでしょうか。
受難。線路跡は1027号の築堤に埋まり、サイクリングロードはこの有様。
果てなく続くと思われた雪原を越えると再び線路跡。左にもそれっぽく見える道跡があります。右が歌志内線跡で、左は上で書いたかつての通学用の歩行者自転車専用道路跡。歌志内線廃止後にこちらに移設されたようです。
歌神駅跡は公園化されていました。もちろん駅の痕跡はありません。歌志内線の駅は残す所あと一つ。
歌志内駅跡。サイクリングロードもここで終わりです。最後まで来たのに何もありません。後に歌志内線となる空知線は官鉄ではなく北炭によって運炭のために建設されたため長くて広いヤードがあったはず。今はここ一帯だけやたら建物がスカスカで、ここが駅だったんだなと思わせます。
歌志内駅跡の一角ににある郷土館ゆめつむぎには歌志内線の品々を集めたコーナーがあります。入り口で郷土間の顔として出迎えるのは歌志内線の駅名標。歌志内駅以外にも各駅で実際に使われていたアイテムで壁が埋め尽くされています。
歌志内駅から更に南東に延びていたレールは歌志内線の生みの親、北炭の空知炭鉱へと繋がっていました。
列車からトラックへ、石炭から石油へ代わり、運炭を主な収入源としていた歌志内線は赤字へと転落。1980(昭和55)年、赤字の膨らんでいた国鉄は稼ぎの悪い路線を切り離すことを決定しました。これが特定地方交通線と呼ばれるものです。第3次まで選定された中で歌志内線は運炭量の基準のため第1次は免れましたが第2次には選定されてしまい、バス化か三セク化が迫られることとなります。当初三セク化しても合理化と運炭で十分黒字が見込めるとして話が進んでいましたが、不幸にも時同じくして石炭生産の縮小が決まり赤字必至となったためバス化へと決まりました。こうして1988(昭和63)年4月24日、歌志内線は96年の歴史に幕を閉じました。
最後に単体で紹介するには短すぎる旧歌志内トンネルに行っておきます。現在の新歌志内トンネルは歌志内の市街地から北東に延びる道道114号にあり、北隣の赤平市との間の峠部にあります。2003(平成15)年に開通したこのトンネルは周囲が炭鉱だらけのため坑道にセメントを流し込みながら掘ったという炭鉱街ならではのエピソードがあります。
新歌志内トンネル坑口前からやや急な道を上り上歌を抜けると除雪が終わりました。と同時に通行止めの標識が道のど真ん中を塞いでいます。
雪の上を進むと旧歌志内トンネルの坑口に行き当たります。旧歌志内トンネルは1車線のトンネル2本。歌志内に向かう右のトンネルは1959(昭和34)年、赤平に向かう左のトンネルは1973(昭和48)年竣工。1本掘った後交通事情に応じてもう1本掘り増した形です。新歌志内トンネルが出来た後どちらも坑口前が盛土されたので当然穴はありません。
反対側、赤平側の方。こちらも通行止めの標識で塞がれています。標識の付近で道路は左右に分かれそれぞれ上り下りの車線になります。
この記事の情報
主要地点の地図
参考文献
- 札幌鉄道管理局営業部旅客課長 池田晴男(編輯)、『北海道 駅名の起源』、日本国有鉄道、1962年
- 歌志内市編さん委員会(編集)、『新歌志内市史』、歌志内市、1994年
変更履歴
- 2016-03-15 誤字修正
- 2016-03-16 誤字修正
2016-05-04T23:26+09:00(JST)
コメントを入力してください。拝見しました。私は昭和28年に市内で生まれ、10歳で引っ越しをしたので、記憶があまりありませんが、それでもなんとなく懐かしい気がしました。丁寧に調べていて、感謝してます。