羽幌炭鉱(築別炭砿・羽幌砿)

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世界中どこでも等しく進み行く暦とは裏腹に、北海道の春はずいぶん悠長です。内地から続々届く桜の開花の一報がまるで外国の出来事のように思えます。


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朝から吹雪と曇り空を交互に繰り返し今日のお散歩は中止にしようかと考えましたが、吹雪をものともしない野生のおばあちゃんがゲートの向こうから現れたのに勇気付けられ、やっぱり歩いてみることに決めました。


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今日は羽幌炭鉱の主要な炭鉱集落だった築別炭砿を見てみます。と言っても遺構が沢山あるし広いのでまずは太陽小学校。


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開校、閉校。現在の校舎はに完成したものですので学校として使われたのは僅か4年間だけということになります。


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太陽小学校のほかに太陽中学校、太陽高校という学校が存在していましたが、「太陽」というのは地名ではありません。羽幌で炭鉱開発をしていた太陽産業株式会社の太陽です。開校時からまでは校舎が無く、太陽産業の社宅を間借りしていたとか。


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始めに足を踏み入れたのは調理室みたいなところでした。窓ガラスは割れて風吹きすさぶ校内。散らばる備品。廃墟の鑑賞法が分からない僕。そろそろ美の壺あたりで廃墟やってくれないですか?


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シカほか何体かの剥製が1階各所に配備され厳戒態勢を敷いています。物陰にヒグマの剥製を見たときには飛び上がるほどビックリしました。多分ちびりました。


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窓から見える巨大なUFOは体育館。


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校舎とは別に建てられたこの体育館はに完成したもの。は築別坑が最多の出炭量を記録し、には最多の22学級1,065人の児童を数え、築別炭砿が一番賑わっていた時期でした。北海道内2番目、道北で初となる円形体育館だそうです。直径32m、高さ約12m。


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、羽幌炭鉱閉山のあおりを受けに閉校。から「緑の村」整備事業が始まり太陽小学校校舎が農業体験学習館として利用されました。現在廃墟の中に残る剥製などの残留物は緑の村の遺産です。緑の村は、利用者減少のため閉鎖となり、今では絶好の炭鉱遺産を廃墟ニストに提供しています。


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太陽小学校を後にし、次に見えてきたのはこの巨大なコンクリート建築。ご老体に掲げられた褪せた看板には「」と書いてあります。


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ご想像の通りホッパでした。明らかに別個で建てられたというような不整合があり、炭鉱の成長と共にこのホッパも継ぎ足し継ぎ足し使われたことを伺わせます。


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ホッパの次に姿を見せたのは羽幌炭砿鉄道病院。画像検索して先駆者の功績を拝見してみると今まさに崩壊まっさかりであることが分かります。


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中は歩き回るような広さは残されておらず、現存箇所も床が人の体重を支えることは出来ません。もう1回大雪に見舞われたら今度こそ跡形も無くなってしまいそうです。


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病院前から辰巳橋を渡って築別川を越えます。道は川の北に敷かれているのに現存する遺構の多くは川の南側に位置しています。もし橋が撤去されでもしたらアクセス不能になっちゃうね。


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橋を渡り右側にはまず築別炭砿消防団の消防署。1階車庫部分しか残ってませんがかつての写真では3階建てだったようです。


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消防署の西には謎の楼。


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もっと西には発電所の煙突。ロシアの青年にでも知られたら何かエキサイティングな遊びすること間違い無し。この存在をロシア人に教えないでね。


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発電所から少し離れた南西には2棟の廃墟があります。


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手前の廃墟はホッパ的なものが付いてるので原炭ポケットか何かかな?


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奥の廃墟の用途は皆目見当付きません。


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廃墟の南東、地図に水線のない沢のほとりには坑口っぽいものがうすら見えます。扁額、坑口の状態いずれもよくわかりません。坑口は1つじゃないのでこれも築別坑のひとつと思います。


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坑口から辰巳橋へ戻る方向へ歩くと坑口浴場の跡。完成、総面積409.886m2。更衣室のロッカーはなんと1,036人分用意されていたそうです。濡れた作業着はスチームで乾かせ、アメニティグッズは会社支給。仕事終わりの鉱員は爽やかに家路へと就けました。


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手前の小さい方は上がり湯、奥の大きい方が湯船。一度に1,036人は無理かな。


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坑口浴場の北側には屋根の落ちた廃墟。雪が積もって一寸も入ることはできません。


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辰巳橋の東方には4棟の炭住アパートが残っています。建物ごとに「69R-1」などの機械的な番号が振られていました。往年末広町1丁目と呼ばれたこの場所が炭住の発祥の地。700mほどあるこの通り沿いにはきれいに整列した炭住がアパートが立つ前の航空写真に見えます。合理化の旗印の下に炭住もアパートに生まれ変わることとなり、、1期工事分2棟48戸に入居開始。には2期工事分2棟48戸も完成しましたが、皮肉にも合理化により炭鉱の軸足が羽幌砿に移ってしまったことに加えに閉山という最悪の結末を迎えてしまいます。同時に炭住も不要になりこのアパート群もわずかな期間だけしか住まわれませんでした。


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各部屋は2LDKでベランダ付。風呂なし。トイレは個別でなんと水洗。外壁はしゃれ込んでハイカラに塗られてるし、建物は隙間風とは無縁の鉄筋コンクリートですよ。流行の核家族の皆さんにはおあつらえ向きかと。お客さんどうです?ここに決めますか?


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こいつがそんな眩しい後光を放っていたのも今は昔。放置の末にゴーストタウンと化しています。築別炭砿はとりあえず以上。


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築別炭砿の歴史はを皮切りに数度の調査との鉱区設定に始まり、採掘もにわずかに行ったらしいです。しかし交通の便が悪く本格的な採掘は昭和になるまで行われませんでした。この時代築別の炭鉱は「セタツコナイ炭山」・「セタコクナイ炭山」・「轡炭山」と呼ばれました。
、神戸の鈴木商店が鉱区を買収し集約、世界恐慌で会社が解散すると太陽曹達株式会社(太陽産業株式会社に改称)の所有するところとなりました。こうして太陽産業が採掘を開始したのは。後の羽幌本坑や上羽幌坑に先駆けて築別が先陣を切って開坑、炭鉱の名は「羽幌炭砿」としました。交通の便はに羽幌鉄道の全通により改善し、鉄道会社は炭鉱会社を合併し羽幌炭礦鉄道株式会社が誕生しました。この会社が羽幌のヤマを最期まで掘り進める会社となります。惜しくもこの時期は太平洋戦争勃発と重なってしまったため人手不足・物資不足の状況が戦後まで続くこととなりました。
戦後の混乱期を脱した後は順調に出炭量を増やし度には羽幌炭鉱全体の出炭が100万トンを突破しました。その半分以上は築別で産し、この年築別の出炭量がピークを迎えていました。
しかし石炭から石油へのエネルギー革命が進むにつれ石炭産業全体が左前になり羽幌炭鉱も経営が悪化。合理化にまい進しましたが末期は国の手によってのみ繋ぎ止められている格好になっていました。国のスクラップアンドビルド政策ではビルド側になりモデルケースとして例の4棟のアパートも建てました。それでもには何人も閉山の二文字から目を背けられなくなっていたのです。
子会社の北栄物産が倒産。誘爆で


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次は同じ羽幌炭鉱、炭鉱集落の一つ、羽幌砿に来ました。ここには「炭鉱といったらアレ」というアレが残っています。そう右のアレです。


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空知の炭鉱にはランドマークのような立坑櫓が残っているように、留萌炭田ではホッパがあちこちに残っています。「アレ」はコレじゃないですよ。立坑のことです。


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ホッパの裏は第2選炭工場があります。足元にはシックナ。


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選鉱場は地下1階、地上3階の鉄筋コンクリート造。壁も床も崩壊が著しく、マリオほどのジャンプ力が無ければ歩き回るには不便極まりないです。濡れてる所はもれなく凍ってるし階段は踏み面狭くて手摺無いし、大至急匠のリフォームが必要です。


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東の1面は階段と事務所っぽい部屋が縦に連なっています。


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選鉱場の裏にあるのが本丸、立坑櫓。に完成した羽幌炭鉱末期の施設です。


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北東の角にあったらしい玄関の一つから中に入ると吹き抜けの大部屋に。コンベアでもあったんだろうと思う穴が開いてますが人用の通路はありません。


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そこで裏の建物へ直接行き、昇降口っぽい大きい玄関から中に入りました。


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玄関入って右の部屋は壁際に机が並べられいかにもデスクワークをやっていたような感じです。斜陽期を迎えつつあった時代に合理化のため立坑櫓とともに建設されたこの建物にはさまざまな施設が集約されていました。その一つとして事務を執り行う部屋もあったのです。この部屋は砿務課と機電課が入っていたとみられます。


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同じ建物内には坑口浴場もありました。


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二度と活躍することの無いタイムカード。半端じゃない枚数です。


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2階へは上がれそうにありません。


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奥の部屋は立坑櫓。運搬立坑のエレベータがあった場所です。もちろん現在穴は塞がれています。


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深さ512mの坑底までをわずか1分で結び、1度に鉱員50人を運べたそうです。運搬立坑と呼ばれるのだから当然鉱石も上げることができ、フル運転すると毎時鉱車80両、約1,000tの運搬能力がありました。ロープの両端にケージを取り付けるケーぺ式を採用していたのでケージは2つあったのだと思いますが今は地上に突き出たシャフトのみが残ります。


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高さ約40m、5階建ての櫓の3階までは吹き抜け。4階には配電盤室、中5階は制動機、5階は巻上げ機が置かれていました。上層階までの移動はこの炭鉱初となるエレベータが使われましたが動力の無い今では動かせません。そこで多くの方は階段を支持すると思いますが老朽化が激しい上に高所恐怖症の僕が登るなんてことはありえません。見たい方はご自分で行くか検索してみて下さい。


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屋根が落ちてるところは入れなかったので外に出ました。


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外には少し離れてホッパっぽいものが1棟。


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西にだいぶ離れて発電所の跡もありました。これ以外にも炭住とかガソスタの跡とかよく分かんない物とかいろいろありますが、いかんせん雪の季節ではこれ以上の遺構鑑賞はできません。


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羽幌砿は築別炭砿と同じく明治時代に調査が行われました。築別炭砿の調査はが初めてでしたがこの時の報告分は築別砿と上羽幌だけで、明確に羽幌砿を調査した記録は見られません。の調査で、上羽幌と羽幌砿を一括りにして苫前炭田羽幌区という形で公表されました。に築別炭砿、に上羽幌でそれぞれ創業が始まり、これに続けとには個人が羽幌砿でも創業を開始、この時「羽幌炭鑛」の名が生まれています。しかし交通の便の悪さを理由に本格的な採掘には至らなかったようです。
、神戸の鈴木商店が鉱区を買収し集約、世界恐慌で会社が解散すると太陽曹達株式会社(太陽産業株式会社に改称)の所有するところとなりました。こうして太陽産業が採掘を開始したのは。ただしこれは築別砿での話で、羽幌砿が日の目を見るのには少し待たねばなりません。
羽幌砿の開発は、国の再建を根底から支える石炭の増産のためという重大な任を持って着手されました。翌、築別鑛業所から羽幌鉱業所が独立し石炭産業の黄金時代へと突き進みました。
斜陽期を迎えた昭和30年代、年々進行する石油へのエネルギー転換が炭鉱町に暗い影を落とし、合理化という治療が懸命に施されました。これに反して業界の行く末を案じた鉱員は次々ヤマを下り、出炭は思うように進まずじまい。延命措置もむなしくに閉山を迎えました。時点で3,682人いた羽幌砿の人口はやはり急激に流出しに0となりました。


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この後は山一つ越えて羽幌炭鉱3大炭鉱町のラストとして上羽幌にも行きたかったのですが冬季通行止めだったので、帰路につきつつ築別炭砿・羽幌砿から築別まで運炭していた羽幌炭鑛鉄道の跡を道路からチラ見てきました。明治大正の調査では質・量ともに有望であることが指摘されていながら輸送という課題を抱えていた羽幌炭鉱。、太陽曹達が築別砿の開発に手をつけるのと同時に羽幌と炭鉱を結ぶ鉄道も建設を始めていました。2度にわたって鉄道免許の申請が却下され3度目の正直で免許が下りたのは。許可の下りることは前もって分かっていたので、建設はフライングしてに起工。橋桁の調達のために四国九州まで足を運んだという逸話が残っておりますが、その結果が↑の写真ですよ。支間長バラッバラのすごい取って付けた感。


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別の橋の橋台付近はレールで組んだトレッスルが追加されてるんですけどそれってダイジョブなの?


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写真を撮ってる道路の橋は銘板の大きさが超なげやり。


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主要地点の地図

参考文献

  • 新羽幌町史編纂委員会(編集)、『新羽幌町史』、羽幌町、2001年
  • 近藤清徹(編集)、『羽幌炭鉱小史』、留萌新聞社、1985年
  • 農商務省鉱山局(編)、『石炭調査概要』、農商務省鉱山局、1913年
  • 『北海道鉱床調査報文』、北海道第二部、1888-1891年
  • 羽幌町、『町勢要覧資料編(2002年版)|行政情報|羽幌町』(http://www.town.haboro.lg.jp/gyousei/shiryou-toukei/chosei-youran/2002.html)
  • 「ニュース十字街」、『広報はぼろ』、NO.23(1962(昭和37)年6月号)、p6

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コメント

  • 匿名
    2013-09-22T15:38+09:00(JST)

    懐かしかったです…昔住んでました!

  • 中島勝美
    2013-09-22T15:39+09:00(JST)

    懐かしかったです…昔住んでました!

  • Morigen(管理人)
    2013-09-24T21:25+09:00(JST)

    拙い文と写真でも懐かしんで頂けて光栄です。