渡島中山峠旧道(主に厚沢部側)

昨日は函館から松前経由で江差に至る国道228号福島峠付近に出没しましたが、今日は厚沢部経由の国道227号中山峠付近に出没。中山峠は他の中山峠と区別するため渡島中山峠とも呼ばれている北斗市/厚沢部町界の峠。かつては鶉山道・大野越え・江差山道・鈴鹿山道とも呼ばれ、北海道内ではケッコー歴史の深い峠です。


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かつては東に函館、西に江差という和人地の大都市を抱える地にありながら、両者間を行き来するには江戸時代まで沿岸を遠回りせざるを得ませんでした。自然発生した刈分け道程度の危険な道はありましたがとても大動脈とは言えず。通年不凍港を獲得せんとしたいロシア勢力の南下から西蝦夷地を防衛するためにも、物流のためにも山道を開く必要がありました。寛政年間(1789年~1800年頃)に江差の商人が山道を拓いたらしいですが小さな道だったようです。


2012042902.gif(『鶉山道図巻』より第廿号字中山)
安政元年6月(1854年7月頃)に大野市ノ渡(山道東の麓)の道仙という僧侶が鶉村(山道西の麓)で旅籠屋を営む麓長吉と協力して新道を開削しようとしましたが、資金と人出が不足したため完成することなく中止。次に開削を試みたのは江差の商人6代目橋本屋甚右衛門。彼は商人は商人でも豪商であり、商業活動拡大のため太田山道と狩場山道を私費で開削しました。鶉山道もその例に漏れず安政5年3月(1858年3月~4月頃)から同年9月(同年10月頃)にかけてわずか半年の工事で完成させました。山道開削後その功績が認められ甚右衛門は名字を名乗ることを許され(橋本屋は屋号)鈴鹿甚右衛門と名を改めました。北海道神宮境内社開拓神社には間宮林蔵、近藤重蔵ら聞き覚えのある偉人に並び鈴鹿甚右衛門も祀られています。中山峠(この頃は「御境」と呼ばれていた)より函館側を江差山道と呼ぶことがあるのに対し、江差側を鶉山道あるいは鈴鹿山道というのは彼の名にちなみます。


2012042903.png(5万分の1地形図「館」大正9年4月30日発行に着色)
鈴鹿甚右衛門の山道は改修されながら使われていましたが、落石あれば道を塞ぎ雨が降れば足元グチョグチョ、函館戦争で荒れ放題になり人がやっと通れる小径に逆戻りしていました。明治3年(1870年頃)本願寺道路で有名な現女が全面的な改修を行いましたが、山道が険しいことには変わりはなく大改修が望まれました。勿論少しずつは改修を続けて行きましたが、大改修には現地調査が不足していたということで1879(明治12)年よりようやく調査や測量が始まることとなります。1885(明治18)年から翌年11月に工事が行われ鶉山道は馬車2車線になり大きく変貌を遂げました。総工費10万840円、人夫3万2,000人を使いダイナマイトで岩を削った大改修でした。


2012042904.png(5万分の1地形図「館」昭和21年11月30日発行に着色)
しかしこれほどの改修をして道がハイスペックになっても通行物の方もハイスペック化して馬車や自動車が通るようになると峠付近の坂が急すぎて不便となって来ました。1921(大正10)年11月、厚沢部村(現厚沢部町)村長となった佐野勇松は不便解消の為トンネル掘削を提案しました。当時トンネルは簡単に掘れるようなものでなく、議会は反対。負けじと説得した末見事トンネル計画は樹立しました。トンネルの名は中山隧道。トンネル工事は1923(大正12)年5月に起工し、1924(大正13)年6月竣工。当時の北海道で道路トンネルは沿岸ばかりに作られていましたが、このように峠に作られたのはこの中山隧道が黎明であり、内陸の道路交通網が発展してきたことを物語っています。


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時は下り戦後に飛びます。戦時中は勿論改修はなく現状維持がやっとのところ。時々大穴の開く腐りかけ木橋が現役で使用され、鉄道からシフトしてきたトラックがガタガタ未舗装路面を走る危険な状態となっていたのです。1952(昭和27)年、周辺町村長や議長、旅客貨物輸送関係会社の長が北海道開発局に現状を訴え改修の請願をしました。この他にも運動があり改修が決まり、先駆け1957(昭和32)年中山峠は二級国道函館江差線に指定されました。峠は新しい中山トンネルを通し、前後の道を直線化及び勾配の緩和化。もう山道とは言わせない、現代的な国道となりました。


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峠の江差側、厚沢部町峠下の現代的なナウでヤングっぽい国道227号から分岐する旧道。上り坂から分岐する下り坂のため見えにくいし、これといって目印も無いし一度素通りしてしまいました。ここより少し下では鶉ダムの付替えで旧道は水没してるので、旧道歩くならここより上です。


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旧道上に荒れはなく今にも山菜採りの車がやってきそうな感じ。右手に電線が伸びていますが、奥の基地局っぽいアンテナと対岸に通じているだけで沿線に人家はありません。


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アンテナを過ぎると徐々に荒れがひどくなり、笹が繁茂したり暗渠が流失したりと完全に自動車を通さなくなりました。


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前方に緑の大きな橋が見えてきました。あの橋は現国道の麓橋。麓橋は上下線で別々の橋で、緑のは1967(昭和42)年に戦後の改修で架けられしばらくは1橋が上下線を賄っていました。1993(平成5)年に並行して麓橋が架けられ上下線が別になったことで幅員が広くなり登坂車線も設けられました。


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旧道の橋も麓橋。道路上からは笹によって全体は望めません。銘版によると1956(昭和31)年8月の竣工。戦後の改修の下準備で国道指定を受ける前年の竣工です。旧旧橋は改修をも待てず一刻も早い架け替えを必要とする程老朽化していたのでしょう。


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旧麓橋から現麓橋を見るとその間に旧旧麓橋があったようです。事前に旧版地形図に目を通していたのですが、すっかり旧旧橋の存在を見落とし、現地で潅木にまみれた橋台を見つけて初めて存在に気づきました。


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旧旧道と旧道は合流し再び1本となります。現国道と接近しているがために一部が埋められ、谷川と接近してるがために一部が削られ、廃道化しているがために全部が藪に被われ、とても歩く気になれません。そんな廃道にチャリごと入ってきてしまい担ぎながら藪を漕いでいきます。


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三角沢川を渡る地点は現在の地形図ではなにも記されていませんが、現地には高さ30mはあろうかという巨大な盛土が築かれていました。三角沢川は暗渠を流れているようです。


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三角沢川を渡った後、旧道は大回りで高度を稼ぎ、旧旧道は短絡的な線形でやや急な坂を登っていきます。ここから上、それぞれの道は交差はしますが基本別のルートで中山峠に至ります。今回は中山隧道に行きたかったので旧道を登って行くことにします。


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右に現国道の盛土によって消滅した旧旧道を尻目に、旧道は埋没を免れ三角沢橋の下を通ります。


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麓橋と同様に三角沢橋は上り下りで別々。下りが1967(昭和42)年、上りが1997(平成9)年のもの。見ての通りどちらも逆ランガー、つまり上路式のためカッコイイ橋だということにはドライバーたちは気づきません。


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旧旧道と出会えたと思ったら交差するだけで再び別の方向へ。「ゴメン好きの人ができたの……」と小奇麗な林道と連れ添って山へと消えていきます。別れるんなら幸せになれよ。


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旧道は現国道と合流。しかしピッタリ一致しているわけではなくカーブ具合や勾配が微妙に違います。


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勾配が異なるので現国道から再び旧道が独立する頃にはこれぐらいの高低差が付きました。旧道から現道に切り替える際には片側相互通行や仮設道路を巧みに利用していたのでしょう。


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旧道は大きく削らず埋めず、地形に沿ってウネウネと峠へと向かいます。途中一箇所土砂崩れのため通行できませんでしたが、他はほぼ順調。標高が上がったためか雪が溶けきっておらず藪の心配すら要りません。


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中山トンネルの坑口真上。現在の中山トンネルは1966(昭和41)年に竣工し、毎日約5,500台の交通を支える中山峠の要石であります。トンネルの建設と同時に前後の線形改良が甚だしく、山道時代の険しさなど微塵も感じない快走路です。


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旧道中山峠前最後のカーブ。見えるぞ、あれが見えるぞ!


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あぁ……そんか事しちゃいますか。上がりかけたテンションが急降下。


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イギリス積みのレンガでポータルの大部分を構成し、笠・帯・要の白いアクセントとうっすら付け柱。鉄道用トンネルには少ない装飾性のある坑口で、北海道の道路トンネルでもレアなレンガ坑門ですが、立体的な装飾を抑え大人し気な印象を受けます。扁額には見紛う事無き「中山隧道」の四文字。竣工は1923(大正12)年3月までを予定していましたが、仕上げ工事が伸び1924(大正13)年6月に竣工。旧来の峠から約30m直下を、115.60mで貫いていました。有効高4.00m、幅員5.50mという大きさは今では狭い方だけど決して「ナシ」ではなく、当時の北海道では大断面の部類に入ったのではないでしょうか。


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坑口の真横付近から見ると面壁が外に撓み、坑口上の山体がへっこんでいます。埋め戻しではなく自然の脅威による閉塞でした。


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ということで最後に旧旧道と別れたポイントに来ました。そうですよ、旧旧道で中山隧道の反対側に行くんですよ。旧旧道は林道と駆け落ちしてるのでここから見る範囲では全く問題はなさそうです。しかし、200m程入って林道から別れた後どうなるかですね。旧道ですら土砂崩れがあった位ですから、大正時代に廃止された旧旧道ともなると完全消滅してそうです。


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問題の分岐点。果たして旧旧道の状態や如何に。


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うーん、この笹がずっと続くならきついなあ。


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と、きつい面を先に見せておいて実はほとんどが薄い藪かこのような綺麗な状態、あるいは雪解け前の硬雪でした。


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旧旧道は旧道よりも幅は広いし掘割を多用してるし、トンネル以外は旧道よりも高度なことしてる気がします。


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中山峠頂上。あそこが厚沢部町/北斗市の境界にして渡島/檜山の境界、そして松前藩領と天領(幕府の直轄領)の境界になります。函館から幾人もの出稼ぎ者がここを通りやってきて、こちらからは海産物がここを通り向こうに渡りました。


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右手下方には旧道が中山隧道に吸い込まれる様をそれとなく観察できます。多分緑のない今時期限定特典です。


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幾万もの歴史が通行した峠を踏みしめ、カーブを曲がると下りの路面は一面雑木林。蔦をくぐり木をかわして坂を下ること200m、峠が目視できなくなった辺りで180度向きを変えるヘアピンカーブを迎えます。


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ヘアピンカーブで無名の小川を渡り対岸を下ります。橋を架けるような大きな川ではないので暗渠だったのだと思いますが、この付近に道の姿は見つけられませんでした。


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ヘアピンカーブからカーブの内側。山道時代、こんな道を毎年5月には漁に出かける人が30kgの荷物を背負って往来したそうですが、僕は現代に生まれて本当に幸せです。


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カーブから200m、奥には旧道が横切り合流ポイントが見えます。広くなった両側のスペースは旧版地形図には建物の記号があり、旅籠屋か茶屋があったのでしょう。


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旧道の行方を右に辿ると、旧旧道には見られなかった石積みの法面が見えます。その陰では行く手の3方を斜面に囲まれているのでいよいよアレが出てきますね。


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うわー、崩落は無いっぽいですが、何なんですかこれは。反対側で見た坑口と同じレンガと石の大正浪漫を、清々しいまでに台無しにするバリケードを誰か何とかして下さい。


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「これより先旧中山トンネルが危険な為立入り禁止」と掲げてるすぐ下でパンチラさせなくていいですから、普通に観賞させて下さい。


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中は側壁が間知石、アーチがレンガにコンクリ巻立て。路面にはムーミン谷の例のお化けが生息(氷筍)。何年か前の新聞で冬季のこのトンネル内部に氷瀑が!みたいな記事がありましたがこれなら有りそうです。間知石の石材は江差側の麓近く、稲倉石という所で採掘されたもの。採掘作業では僕と同郷の高森という石工が亡くなられているのでこの場を借りてご冥福をお祈りいたします。あなたを礎に立派なトンネルが出来ましたよ。


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中山隧道を出た後の旧道はズバッと下って現道の中山トンネル脇に合流します。ちょうど真正面に現道中山トンネル坑口に設置されたシェルターらしきものが見えますね。これからチャリを回収しに厚沢部側に戻らなければならず、このまま下れば現道中山トンネルを使って戻れますが、幅員が狭く怖いので却下。旧旧道のトンネル無し中山峠を通って戻ることにしたいので北斗側には降りずに撤収しました。


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チャリ回収してから車でで今日の宿営地に移動。ぶらぶらしてたら思いもよらず素掘りのトンネルに巡りあわせました。道内でも知らないトンネルってまだまだあるんだなあ。

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主要地点の地図

参考文献

  • 厚沢部町史編纂委員会(編)、『桜鳥 第二巻』、厚沢部町、1981年
  • 北海道道路史調査会(編)、『北海道道路史 路線史編』、北海道道路史調査会、1990年
  • 北海道土木技術会鋼道路橋研究委員会鋼橋歴史編さん小委員会(編)、『北海道における鋼道路橋の歴史(資料編)』、北海道土木技術会鋼道路橋研究委員会、1982年
  • 沢田雪渓(画)、石田良助(跋文)、『鶉山道図巻』、函館支庁、1886年
  • 国土交通省、『平日24時間交通量(平成17年度道路交通センサス)』(http://www.mlit.go.jp/road/census/h17/03/01_01_3_0227.html)

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